仁科辰夫教授 退職記念事業 |
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仁科辰夫先生は、20230401付で、名誉教授の称号を付与されました。
醸金者名簿C1 の教授は佐藤誠教授から、鎌田仁教授、松木健三教授、そして仁科辰夫教授と引き継がれてきました。今でも、警務員室では、 C1の略称が通じます。諸先輩方には、化学・バイオ工学科の仁科辰夫研究室というより、応用化学科の1講座と言った方が、通じやすいです。
その仁科辰夫教授が定年を迎えられ、この春に退職されます。最終講義を固辞される先生方も多い昨今のご時世にあって、謝意を込めて開催させてほしいとお願いしたところ、快く引き受けてくださいました。下記の通りご案内申し上げます。オンラインでも配信する予定です。ぜひ、お誘いあわせてご参加ください。
また、ご退職にあたって、 仁科辰夫教授退職記念誌 を発刊することとなりました。
これまでの先生のご功績を称え、ご薫陶とご指導に感謝の微意を表したく、下記の記念事業を計画いたしました。 なにとぞ、 本記念会の趣旨にご賛同 いただき、ご協力賜わりますようお願い申し上げます。
記
※講演会終了後、先生を囲んでの茶話会となります。
山形大学大学院理工学研究科教授(化学・バイオ工学専攻)仁科辰夫先生は、2023年3月31日をもって定年を迎えられます。
先生は1983年(昭和58年)東北大学大学院博士課程前期2年過程をご修了後、(株)本田技術研究所にお勤めになりました。 その後、1984年に母校の東北大学の助手に着任されました。
その後、縁あって、 1997年に助教授として山形大学工学部に赴任されました。 そして 2007年に教授に昇進されました。その後は、 物質化学工学科の学科長や労働組合の執行委員長を務められました。
先生は山形大学工学部において25年の長きにわたり、 電気化学の教育と研究に携わり、研究室から優れた人材を多数輩出されました。
学外では電気化学会東北支部長、表面技術協会東北支部長を歴任されました。 また新エネルギー・産業技術総合開発機構 (NEDO)の技術評価委員や日本規格協会の 品質管理と標準化セミナー東北教室教務主任も務められ、山形大学にとどまらず、日本の工学を先導してこられました。
先生のご退職にあたり、これまでの教育研究および本学への貢献に対し、関係者で感謝の意を表すため 仁科辰夫教授退職記念会 を設立しました。 2023年3月17日(金)には最終講義を予定し、また記念論文集の発刊を計画しております。HP等でご案内いたしますので、関係者のご参加、ご賛同を賜りますようお願い申し上げます。
立花 和宏
年の瀬が押し迫っていた。日が暮れるのは早く、助手席からフロントガラス越しに見える雪道は、真っ暗だった。降りしきる雪をかきとるワイパーの音がいかにも必死というふうで、前を照らすヘッドライトの灯りだけが頼りだった。
あっ!
ふわっと、お尻が振られるかんじがした。 ぐらりと車体が傾いた。 どすんと鈍い音がした。少々、体が前に投げ出された。シートベルトが、ちょっとロックした。何が起こったのか、わかるまで、少し時間がかかった。
仙台から七ヶ宿街道を通って米沢に帰る途中だった。峠を超えて、もうすぐ、高畠の町にさしかかろうとするところだった。乗っていた車が、圧雪の路面でスピンして、路肩の標識にぶつかったのだ。
仁科先生は、やっちまったという体で、「ごめん」とあやまったが、もともと仁科先生は、ぼくのために、自家用車を出してくださったのだ。だから、ぼくは、仁科先生には感謝こそすれ、責めるつもりなど毛頭なかった。 幸いエアコンは動いていたので、レッカー車がやってくるまで、数時間ほど車中で過ごした。
そのころ、ぼくは、博士学位論文の執筆中だった。それで、東北大学の内田先生の指導を受けるのに、仙台に何度も足を運んでいた。仁科先生も、内田先生の指導のもと博士の学位を受けている。つまり仁科先生は、ぼくの兄弟子ということだ。
そんな事情もあって、仁科先生は、何度となく、自家用車で、ぼくを仙台まで連れていってくださったのだ。あるときは、雨の川べりに咲く薄紫色の藤の花を眺めながら、またあるときは、夏空を背景に雄大な蔵王の荒々しい岩肌を眺めながら、またあるときは、民家の庭の真っ赤に熟した柿の実を眺めながら、何度も何度も、仙台と米沢を往復してくださった。内田先生の指導は、厳しくて、正直、落ち込むことも多かった。それだけに、仁科先生との仙台までの車中で過ごした楽しいひとときは、ぼくの人生で、宝物のような思い出になった。
仁科先生には、こういうアニキ分のようなところがある。落語に 酢豆腐という噺があって、 そこで半公という町人が、「こちとら江戸っ子でぇ!! 人にものを頼まれて、あとへ引き下がったことはねぇ!」 なんて啖呵を切る場面がある。 仁科先生も、人のためなら、たとえ火の中、水の中と、突き進んでしまう。 ほんとうに、火の中に飛び込まれたら困ると、ひやひやしながら傍から見ていたことも、いまとなっては、みな遠く懐かしい思い出だ。
かと思うと、仁科先生は、子どもっぽいところもある。赴任して間もないころ、仁科先生は、米沢の雪の多さに閉口し、長靴を買った。その長靴の素晴らしい「機能」に感動し、東北大学を訪れるたびに、長靴について熱く語っていた。聞かされる仙台の方々にしてみれば、そこまでの実感が湧かなかったのであろうが、笑いながら聞いておられた。月並みな言葉で言えば、マニアックなのだ。根っからの研究者と言っていい。それには随分と薫陶を受けた。
つきあいもいい。無事に東北大学から学位を頂戴して、ぼくは授業を担当することになった。本からの受け売りだけでは、活きた授業ができないと思い、工場見学を心がけた。ひとりでは心細いので、ことあるごとに仁科先生を工場見学に誘った。仁科先生は、いやな顔ひとつせずにつきあってくださった。製紙工場、製鉄工場、鋳造工場、食品工場とありとあらゆるさまざまな業種をまわった。いくつまわったか数えきれない。
印象深かったのをひとつあげれば、中国上海の工場を訪れたときだ。往来を通る車は、歩行者のために停まってくれる気配などない。現地のガイドが「勇気一番!」と言って、道路を渡りはじめた。仁科先生と顔を見合わせてついていったものだ。かと思うと、現地の新しく建てる工場の敷地の鍬入れ式に参加した。わけもわからずヘルメットをかぶらされた。胸のポケットにはカトレアの花をさされた。鍬を持たされ、大衆の前に押し出された。仁科先生と顔を見合わせた。もうまな板の鯉である。言われるがままに、土に鍬をつきたてた。民族衣装を身に着けた若い娘さんたちとともに、取材にきていた新聞記者に、愛想よくふるまい、おとなしくいっしょに写真に撮られた。ほんと、その土地ごとに文化があり、それは行ってみなければわからない。以来、仁科先生は、ぼく以上に現場主義になった。
中国上海の工場見学を世話してくださったのは、JSRから山形大学に来てくださった延末さんと、フコクの河本さんだった。博士論文をご指導いただいた内田先生も、中国上海訪問をお世話いただいた延末さんも河本さんも、みなあの世に旅立たれた。光陰矢の如し、である。少年老い易く、学成り難し、である。いまだに醒めない池塘春草の夢だが、やはり、階前の梧葉はすでに秋声なのだ。
仁科先生との出会いには、縁の妙味や運命の不思議を感じずにはおれない。科学や技術が及ばない何かがぼくと仁科先生をこの世で引き合わせたのだ。仁科先生のご恩を忘れず、刻石流水を肝に銘じて生きていきたいと思います。 仁科先生、ありがとうございました。
追伸、
2023年3月17日(金)13:00より、米沢キャンパス中示範A教室にて、仁科先生の最終講義があります。親和会の皆様には、ぜひお越しいただき、旧交を温めていただけたらと思います。