人には知的好奇心がある。記録された情報はすぐに陳腐化する。だから知的好奇心をくすぐるには、常に新しい情報を作り出さねばならない。そのためには、新しい言葉を作るのがてっとり早い。かくして意味不明の言葉が、つぎつぎと生まれるのである。しかし、それらは知性だけで作り出した言葉であって、人の心が自然と触れ合う中で、完成が生み出した言葉ではない。知性と感性は、人間性の両輪である。知性だけ、どっぷり機械依存しては、不幸になるのも当然だろう。
人はずっと昔からデジタルとつきあってきた。つきあいかたを考えなければならないのは、デジタルではなくデジタル技術の方である。もともと技術とは、危険なものを安全に使いこなす知恵なのだから。
技術は、薬にたとえることができる。薬も過ぎれば毒となる、という諺がある。そして薬人を殺さず薬師人を殺す、という諺もある。デジタル庁が、人を殺す薬師にならないことを切に祈るのみである。
いらっしゃい。デジタル技術。でも、忘れないで欲しい。人の心と心のふれあいと、自然とのかかわりあいを。
人間は、学校を作る生き物だ。子育てを人に委ねて、出産を多くする。活字が出回ると、人は活字に子育てを委ねた。昔の少年は、詩集に育ててもらい、世界文学全集に育ててもらった。テレビが普及すると人はテレビに子育てを委ねた。高度成長期に大人になった子どもたちは、もはや方言を話せない。テレビは標準語しか話せないからだ。テレビや新聞の言葉をそのまま受け入れ、その言葉が変化すれば柔軟に適応した。そして今、スマホが普及した。人はスマホに子育てを委ねた。デジタル時代に大人になった子どもたちは、もはや……
夜になって帰宅する。スマートディスプレイに「ねえ, Google。ただいま!」と話しかける。声認識した文字列が表示され、「おかえりなさい」と答えてくれる。続いて癒しの音楽を流してくれる。遠隔地の限界集落に住む、年老いた母にビデオ通話をかける。
他愛もない雑談。「これ、美味しいよ」とカメラに向かって、漬けたばかりのナスを見せる。思わず手を伸ばして、味をみたくなる。でも、いかなデジタル技術といえども、それは、できない。
昨年、連れ合いを亡くし、免許を返納して久しい母が、繰り返し語るのは、いつもと同じ昔の懐かしい思い出話だ。
私が子どもだったころに母が歌ってくれた歌に、こちらから誘う。もの忘れが多くなって、歌詞が思い出せない、と、ぼやきながらも、いっしょに歌い始める。