勝家は北庄を本拠地と定めると、他所に逃れていた有力商人の橘氏や慶松氏に還住を命じ、一乗谷にいた紺屋などの商人・職人を呼び集めている。こうして一乗谷より移住した商人・職人によって北庄につくられたのが一乗町である。
一向一揆の時期には、北庄・石場・木田にそれぞれ「惣老」がいたことが知られ(武州文書 資2)、地域的な自治組織の存在をうかがうことができるが、勝家の時代になると少なくとも史料のうえからはそうした地域的組織を見いだすことができない。朝倉氏の時代から商人・職人は同業者組織である座を形成していたが、信長・勝家はこの座を通じて商人・職人を支配しようとした。北庄の橘氏は朝倉氏の時代には、後の唐人座(中国からの輸入品を扱う座)の中心をなす製薬業を営んでいたが、朝倉氏滅亡直後の天正元年に信長より軽物座(絹製品を扱う座)を統轄する「座長」としての支配権を認められていた。そして翌二年正月には橘氏は北庄のみならず、一乗谷・三国・端郷(足羽郡東郷か)の唐人座・軽物座の支配権を信長より保証されていた(橘栄一郎家文書 資3)。
製薬 唐人座 軽物座 紙座 油座 呉服座(御服座) 一向宗 福井県
北庄城は天正3(1575)に築城がはじまり、織田信長の安土城天守(7層)をしのぐ、9層の天守閣をもつ日本最大級の城だったと記録にのこっています。