【1〜8グループ】
大示範教室→115教室 → 物質化学工学科 研究室見学 → 研究室見学 → 研究室見学 → 重要文化財 → 学内見学 → 115教室
【9〜16グループ】
大示範教室→115教室 → 重要文化財 → 学内見学 → 物質化学工学科 研究室見学 → 研究室見学 → 研究室見学 → 115教室
正面玄関を入ったら、Aコースは右へ、Bコースは左へと逆周りで見学します。
正面玄関から通じる廊下には、発電機がおいてあります。 ようやく米沢に電気が作られた時代。当時貴重だった電気。 白熱電球のもと勉学に勤しんだ学生。 授業料も寄宿料も無料。ただしひとつでも不合格の科目があればただちに退学。 国民がほんとうのエリートを望んだ時代でした。
大正10年に人絹(ビスコースレーヨン)の製造が開始されましたが、その開発をしたのが秦逸三教授。 戦後恐慌にさいなまれてか、あまり授業をしないで研究開発に没頭したようです。
卒業生の部屋、 校歌や当時の様子が飾ってあります。
ほまれの
名君
治めし績(いさお)
余韻は絶えせじ とこしえ遠く
勤倹習いと なりたるこの地
新たな時世に 新たな光
添え得つ 高等工業校舎
明治
の聖代 四十と三を
数えしその年 基(もとい)をおきて
はくぐみ来たりし 子弟の栄
今はた貢献 斯界(しかい)の上に
教を布きゆく 富国の道に
吾妻
は聳えて 高きをさとし
松川流れて 遠きを示す
その山その
水
仰ぎて俯して
朝夕無言の 教えにひたり
希望のあふるる 数百の健児
金剛
堅かれ 心の誠
身を立て名を揚げ 東亜の空に
光と照るべく 進みて励め
青春勇みの わが世の門出
誉は伝えん 無窮の末に
まだ、コピーもネットも無かった時代。唯一の情報源は先生が黒板に書き写す教科書だった。 学生はノートにそれを書き写して自分の教科書として全国に巣立っていった。 母への手紙の文章もしっかりとしたものだ。
紡織科展示室(教室) に入ると リカちゃん人形があります。 応用化学は燃料や火薬を作るためだけにあるのではない。学徒動員された佐藤安太先輩の気持ちが使わってくるようではないか。そこにはダッコちゃん、リカちゃん、ビーダマンと、夢と希望を若者や子供に託した製品が数多く並んでいる。 よく見るとリカちゃんの瞳の中の星が時代とともに変化しているのがわかる。 白熱電球、蛍光灯、ヘッドライト・・・その時代時代の照明をリカちゃんは見つめ続けてきていたのだ。
電気・通信科展示室(教室) に入ったらまずはレーダー用のマグネトロンを見ましょう。
機械科展示室(教室) にはいってまず目につくのは手書きの製図。アメリカでアメリカ人が作ったプリウスが日本車と言われるのはなぜか? と問われれば、それは日本人が設計したからの一言に尽きます。設計ができること。それがエンジニアの必須要件。 そして設計ができるということは製図ができるということ。図面が引けてこそエンジニア。 当時の学生の勉強の成果を生で体感しよう。