大学教育の質の保証・向上ならびに 電子化及びオープンアクセスの推進の観点から 学校教育法第百十三条に基づき、 教育研究活動の状況を公表しています。
第百十三条 大学は、教育研究の成果の普及及び活用の促進に資するため、その教育研究活動の状況を公表するものとする。
A.①人間が生産活動を続ける理由について学んだ。 ②モノづくりの方法をどのように後世に伝えてきたかについて、ノウハウが書かれた書物を発行することが適切ではないかと考察した。 ③保存食を作る理由は、食材を長期間保存し、必要なときに安全に食べられるようにするためである。食料の供給が不安定な時や災害時にも備えられるほか、季節に関係なく食品を利用できる利点がある。また、食品ロスの削減や、効率的な流通・備蓄にも役立っている。
A.①人がものを作る理由について学びました。産業の発展が私たちのしたいことを実現させてくれたのだと思います。私たちがしたいことの実現が様々な形で叶えられています。それはより美味しいもの、よりいいものという欲望により今の産業の発展があるのだと思いました。 ②どのようにしてモノづくりを伝えてきたかを調べた。 ③日本刀の作り方の伝承方法について調べた。主に徒弟制で師とする人を見て覚えたり口で伝えてきた、その他には文字としてマニュアル化して書物として伝えてきたことを学んだ。
A.①カップラーメンが作られた理由は簡単に食べることができるためだと分かった。人は火がないと生きていけないと分かった。昔は黒曜石によってマンモスの皮を剥いで衣服などを作っていたと分かった。②精密金型(プレス金型)について調査して議論した。自動車部品や電子機器の筐体など、多くの工業製品の量産には高精度な金型が不可欠であると分かった。金型は製造業の母と呼ばれ、その加工技術・熱処理技術・組立ノウハウは非常に高度かつ経験依存型であると分かった。現状はベテラン技術者が勘・コツ・経験によって工程を最適化していると分かった。大学や高専と地場企業が連携して教育を行っている分かった。③ヒトがモノを作らなければならないのは生きるため、精神的な充実、文化の発展の3つが考えられる。1つ目の生きるためには食料の確保のためや居住環境の改善、安全性の確保などが考えられる。2つ目は自己表現や記録の保全などが考えられる。3つ目は知識の伝達や社会の構築、アイデンティティの形成などが考えられる。
A. 昔、工業が発展するずっと前はモノづくりと生きることは直結していた。必要になったものを作り出すことで、製品が生み出され生活がよりしやすい環境を整えることができた。また、物々交換が行われていたが、貨幣というより定量的なものが利用されるようになった。貨幣としては銀が多用され、銀は灰吹法によって精製されていた。 グループワークでは産業用冷蔵庫の技術継承について話し合った。教育カリキュラムの再編や先人の行動データの可視化が必要なのではないかという意見が出た。またメンター制度という歴の長い技術者に若手が1~2人ほどついて実際の業務を通して知識やスキルを習得する方法も良いのではないかという意見も出た。 事後学習では人はなぜものを作らなければならないのかについて考えた。まずは衣食住という生き延びるために必要なものを手に入れたいという欲求があり、そしてそれが揃うとさらに快適に過ごしたいという欲求が生まれるからではないかと考えた。また、個性や自分らしさの表現のためにモノを作ることもあるのではないかと考えた。それだけでなく、情報伝達や記録のための製品を作り、未来に何かモノとして残す必要性もあるのではないかと考えた。
A.①?③を以下に示す。 ①工業製品を作ることの始まりは生き残るためである。例えば温かい衣類を作ることができなければ死んでしまう。熱の移動は放射・伝熱・対流によっておこる。比表面積が大きいのは体積の小さい物体である。例えば体温維持に有利なのは大きい動物である。これは表面積が大きい方が放熱しやすいためだと考えた。昔は皮をはぐのに石を使った。その皮を服の形にして縫う必要がある。 続いてマンモスなどよりも小さな動物を捕まえるようになった。道具として飛び道具を使う。 水を入れる容器の始まりは土器である、土器は粘度を練って成形する必要がある。そのうち物々交換という概念が生まれた。銀を使い始めた。 鉄砲の生産には国友衆がかかわった。種子島に伝来した2丁の鉄砲をもとに作成したといわれている。 ②演題 人は、どうやってモノづくりを伝えてきたか? グループ名 左前 役割 責任著者 共著者 大濱風花、立花小春、島貫乃愛、鈴木結惟 伝統工業製品について米織を挙げる。 米織は米沢の伝統織物で、縦糸と横糸を特定の順序で直角に組み合わせて構成した布のことである。平織、綾織、繻子織の三原組織が基本である。また自然の染料を用いた「草木染め」であった。織るための技術者を育てるための学校があった。ここでは染色などを学んでいたらしい。 線維の変化の流れとしてはレーヨン、化学合成繊維、マイクロファイバーである。 ③トピック名 大量生産されるようになったのは 産業革命を境に大量生産するようになった。これはエネルギーを大量に作れるようになったためと考える。
A.第十五回目の授業では、カップラーメンの作り方について学びました。またカップラーメンの開発の背景を学びました。カップラーメンは1971年に安藤百福が開発した商品で、当時の日本は食料の安定的な確保が難しい状況であったため、その解決策として発売されました。安藤百福はおなかがいっぱいなら争いは起きないという考えのもとカップラーメンの開発を行ったということを学びました。 グループディスカッションでは精密金型、プレス金型について調べました。これは自動車部品や電子機器など多くの工業製品の量産に高度な金型です。金型は製造業の母と呼ばれており、その加工精度・熱処理技術・組み立てノウハウは非常に高度かつ経験依存型であるとされています。現状は、ベテラン技術者が勘・コツ・経験によって工程を最適化しているが、大学や高専などで連携して技術の継承が必要とされています。 復習の内容として、工業化学について調べました。工業化学とは、地球上にある資源から基礎的な素材やさらに発展させた工業製品の製造に関わる研究の分野です。工業化学が注目する視点として、製造コスト・原料の入手のしやすさ・品質の安定化・用いる物質と反応の安全性・廃棄物の処理のしやすさと環境への配慮などがあげられます。
A.①ヒトはなぜモノを作らねばならないのかを学んだ。生きるためであると考えられた。経済は物々交換から発達し、貨幣の交換に変化。最初は、銀を使用していたことが分かった。特有の技術が多く、現在の滋賀県付近では、高付加価値の品物が多いと分かった。職人一人一人ではなく、工場で技術を共有する時代になったということを学んだ。技術は、組織所有のものとなった。 ②人はどのようにしてモノづくりを伝えてきたのかを議論した。カップラーメンというグループで、今山華百、松本碧衣、鈴木純奈、青木優菜と議論し、私は調査と記録を行った。古代から近世にかけては、口承と模倣、図、絵記号による記録が行われてきた。中性から近世にかけては、書物などによって伝えられた。産業革命以降は、学校や職業訓練制度により、伝えられ、20世紀からは写真や映像によって伝えられるようになった。現代では、インターネットやAI、VRなどによって、オンライン上でも技術が継承できるようになった。 ③人は、なぜモノを作らなければならないのかを考えるために、ドラマを抱えた工業製品として、味の素の冷凍餃子「ギョーザ」を選択した。水も油も使用せず、フライパンにおいて加熱するだけで、家庭で羽根つきの餃子を作ることができる。1972年に発売されたが、当時は、冷凍食品といえばお弁当のイメージが強かった。餃子は、人気の国民食であったが、焼く際に皮が破れたり、焼き加減が難しかったりすることが課題であった。そこで、工場で働く社員がギョーザの製造ラインを見ていて「ギョーザの底に油のもとをつければ」と、ふと思いつき、1997年に油なしで焼けるギョーザとして発売し、現在も人気の商品となっている。プロが作る皮と顕微鏡で比較したり、肉や野菜の産地を変えたりしてよりおいしく、簡単にできる冷凍餃子の発明を続けている。よりよい生活を求めているため、人はモノを作らなければならないのだと感じた。
A. 自動車は人間の移動能力を拡張する象徴的な工業製品であり、生活の質や経済活動を向上させてきた。一方で、製造や使用に伴う資源消費や環境負荷という矛盾も抱えている。技術者はその課題に向き合いながら、安全性と環境性能を両立させる車づくりに挑み続けており、モノづくりは人間の可能性を広げる営みとして社会に貢献している。 産業用冷蔵庫の設計・製造には、冷凍サイクルや熱力学などの専門知識が必要であり、かつては熟練技術者の経験に頼っていた。現在では理論と実践を融合した教育が求められているが、大学教育では実践的な技能習得が不十分である。日本冷凍空調学会などが教育機会を提供しているものの、大学との連携は課題として残っている。 技術継承には教育カリキュラムの再編が不可欠であり、理論だけでなく実機の構造や運転データの可視化を通じた体験的学習が重要である。企業と大学の連携による実習型授業や現場課題への取り組みを通じて、技術者の育成と知識の継承を両立させることが、持続可能な産業発展に向けた鍵となる。
A.①カップラーメンは、1971年に日清食品の安藤百福によって発明された。それまで主流だった丼めんは器が必要で、手軽とは言いがたかった。そこで安藤は容器そのものを調理器具にするという発想に至り、めんと調味料を内蔵したカップ型容器を開発した。「空腹が争いを生む。満腹なら争いは起きない」という信念のもと、誰でもどこでも簡単に食べられる食品を目指した。ものづくりとは、生きるために必要な行為であり、作れない者は生き残れない。産業革命を経て、技術は個人から組織へと移り、大量生産の時代へと進化していった。 今回のグループワークは、人は、どうやってモノづくりを伝えてきたか?である。 ②演題は人は、どうやってモノづくりを伝えてきたか?であり、グループ名は和包丁、属した人は、中川一生、佐藤光介、宮内大輝、山口竜輝、中澤裕人、須藤春翔であり、役割は記載係。 今回は、工業製品として和包丁をあげた。その生産技術を継承していくには、教育プログラムやインターンシップ、また、AIの活用も必要ではないかと考えた。 ③私は、義足について取り上げ、人はなぜ、モノを作らなければならないのか考えた。 義足は、事故や病気で足を失った人が再び歩く自由を得るために生まれた工業製品である。初期は木製だったが、今ではAIや高性能素材を使い、走ることも可能となった。モノづくりはただ便利な物を作るだけでなく、失われた機能や希望を取り戻す手段でもある。人は困難を超え、生きる力を取り戻すためにモノを作ってきた。つまり、モノづくりとは生きることそのものであり、人間の尊厳を支える行為だといえる。
A.【講義の再話】 人類がどのようなモノづくりをしてきたか、考えてみます。氷河期時代、生き残るために火が必要な人類は、マンモスなどの毛皮を使って火をつけていました。マンモスを狩るために、黒曜石や骨を使って武器を作っていました。時代が下り、穀物を育てるようになりと、食べるために水に入れ加熱する必要があり、土器が作られるようになりました。土器のような生活必需品が増えてくると、それらを物々交換によってそろえるようになり、やがてそれは貨幣経済に変わっていきました。やがて遠い地域の間で貿易が起こるようになり、例えば中世の日本にはヨーロッパから鉄砲が入ってきました。日本はこれをリバースエンジニアリングし、自国でも生産するようになりました。 【発表の要旨】 演題:人は、どうやってモノづくりを伝えてきたか? グループ名:津南の水 共著者名:小笠原大地、平方誠二郎、藤森隼也、HUYNHVINH KHANG 役割:概念化 スマートフォンについて、技術をどのように伝えるか考えた。設計については、本や図面によって伝えられると考えた。また、図面をデータ化することも考えた。また、技術者が後継者に伝えていくことでも継承されていくと考えた。 【復習の内容】 技術の継承について、さらに考察を深めた。現代では機械の製造は手作業というよりも生産機械による作業がほとんどであり、人の手が介在する場面は少なくなっていく。そのため、機械の技術については製造技術を身に着ける以前に機械工学の深い知識を身に着け、製造ラインのメカニズムを理解できるようにする土壌を築くべきと考えた。
A.① 授業では、金属がまだ存在しなかった時代の人類の暮らしについて解説された。衣服は主に動物の皮を利用して作られており、防寒や保護の役割を果たしていた。また、火を起こす技術は暖を取るために不可欠であり、人々の生活を大きく変えたことがわかった。さらに、体温を維持するためには大きな動物の方が有利であったため、環境に適応することが人類の進化を支えていたことを深く理解した。 ② 日本刀 白澤拓磨、松田天、五十嵐稔ニ、後藤将太、福田徳馬、前田悠斗 自分の班では、「人はどのようにモノづくりの技術を伝えてきたか」をテーマとして、日本刀や漆について調査した。日本刀は、鍛冶職人が何代にもわたり技術を受け継ぎ、折り返し鍛錬など高度な加工法を口伝や実演で伝承してきたとわかった。同様に漆も、塗りや乾燥、装飾といった繊細な工程を、弟子入り制度などを通して伝えてきたことがわかった。これらの調査から、経験や信頼に基づいて手仕事の継承の重要性について理解した。 ③ 金属のない時代、人々は動物の皮を使って衣服を作り、防寒や生活のために工夫していた。火は暖を取るための重要な技術であり、生活の質を大きく向上させた。また、体温を保つには体の大きな動物が有利であり、そのため狩猟の対象として重要視されていた。こうした工夫により、人類は厳しい環境の中でも適応していき、文明を築いた。自然の中で得た技術と知識が生活を支えていたことが確認できた。
A.①なぜカップラーメンは作られたのでしょうか。終戦後食べるものがなく、子どもに美味しいものを素早く作れるものを食べさせたいということで安藤百福がチキンラーメンを作りました。その後、飢餓に苦しんでいるのは日本だけではないはずということではしではなくフォークで食べられるカップヌードルが生まれました。日本は鉄砲や自動車など多くのものを大量生産に成功してきました。 ②「人は、どうやってモノづくりを伝えてきたか?」グループ名:津南の水、平方、KHANG、久保、藤森、役割:調査、可視化 スマホを選んだ。多くの技術に言えるが本、図面、データ化などで伝えられてきたと考えられる。また、人の手が必要な技術はその職人が弟子に、弟子がその弟子にと継承されてきたと考えられる。 ③ オランジーナを選んだ。爽やかで濃厚なオレンジの風味が特徴のこの炭酸飲料はいつの間にか生産終了に至った。オランジーナはフランスの飲料でしたが日本で2012年に発売され大ヒットした。オランジーナが販売終了になった一因として2022年のオランジーナエアリーがリニューアル販売されたことが挙げられる。このオランジーナエアリーは糖質25%オフ、軽い飲み口といった特徴を挙げられ、近年の健康志向や嗜好変化が影響している。消費者に対応していかなければいけない厳しい状況が伺える。
A.なぜものを作るのかをテーマに授業を行った。答えは生き延びるためである。戦争していた時代、食料が足りず畑から盗みをすることが頻発したということから読み取れるように食事の発達は生き延びるうえで必須であった。昔は個人の技術が生きるうえで重要であったが産業が発達してくると大量生産が必要になることから集団での技術が重要になった。 今回の授業の演題は人は、どうやってモノづくりを伝えてきたかであり、共同著者は須藤、山口、中川、中澤、宮内であった。私たちの班では和包丁(工芸品)の技術伝承について議論した。モノづくりを伝えていく手段としては教育プログラム、インターンシップ、AIの活用、海外との交流が挙げられた。 復習では以下の内容を行った。モノづくりの伝承は本などの字を通したものや実際に実演して見せるもの、師弟とることによって行われてきた。産業革命でマニュアルや規格化が進み現代では学校教育、インターネットでの配信や交流をを通してもモノづくりの技術が伝えられている。
A.人はモノづくりの支えてきた。 ・産業用冷蔵庫の技術継承 ・教育カリキュラムの再務 →熱族の深論、冷凍サイフルの理論大学教育、専門教育 ・先人の行動データの可視化 ・メンター制度 OJT(On-The-Job):実際の業務を通して、知識・スキルを習得 →長歴の技術者+若手1?2人また、技術者交流会を行うことで、知識を広めていく。 人間がモノを作るのは、人間社会はたくさんの自然に囲まれていて、寒さや暑さ、食べ物を捕獲するため、または猛獣から身を守るために物を作る。しかし時代が進むにつれて、娯楽や銃などといった危険なものを作るようになった。モノづくりの根底には、ほしいといった需要と供給で成り立っている。昔は自然のものをそのまま使うことに満足していたが、発明者や化学が進歩するにつれて、自然の資源を使いやすく変換する事を求めるようになった。よりよい社会を築き、未来にわたって持続可能な生活を実現するため。その中でも無機工業は、社会の基盤と技術革新を支える柱として不可欠である
A.1、講義の再話 ヒトはなぜモノを作らなければならないのか。 生き残るために必要せあったから、あまり道具を活用しなかった、ほかの人類は、数がどんどん少なくなってしまった。 緑色のペットボトル 緑色のペットボトルに入れると視覚的な効果で売り上げが上がった。 しかし、緑色のペットボトルはリサイクルができないというデメリットがある その時代の課題を解決するために、ヒトはモノを作り続けなければいけない。 2発表 記録について メンバー 松本碧衣 今山華百 鈴木純名 青木優奈 笹原里香 グループ名 カップラーメン 1.口 2図や絵 3.書物や手引書 4学校職業訓練制度 5写真映像デジタル化 6インターネット、オープンソース 7AI、VR、による技術の伝承 3復習、 身の回りの技術の伝承方法についてよく見返してみた、自分の周りにはインターネットなどの最近の方法がほとんどであるが、現代社会でめ口による伝承は大事だと感じた。 サークルによる技の伝承は、もっと違った形であると感じた。
A. 人がものづくりをする理由は、始めは生き延びるためであった。次第に生きるという理由だけではなく、より簡便に生活することを目的とするようになった。食事ができないのならば食事を生み出すための物を作り、寒さを凌ぎたいのであれば衣服を作るなど、その時の目的のために通過する複数のものづくりにより発展した。ものづくりをするためには、1.原料選び、2.加工方法、3.作る、といった工程が必要である。全てを数ある選択肢から選択して最も適合する方法を見つけ出さなければならない。 例えばポテトチップスはなぜできたのだろうか。発祥は1853年のアメリカである。1949年に日本では広島で発祥した。その頃はGHQに向けた手軽に楽しめるスナック菓子であった。1967年にようやく一般向けの商品となり、その後は健康志向の高まりに応じて油の品質向上など、味だけではない改良も行われている。 身近な商品から生活必需品も、全て人がより良く暮らすためにあったらいいと思う願いからものづくりは行われている。
A. 「ヒトはなぜモノを作らねばならないのか?」という問いの答えは、「作れないと生き残れないから」である。もの作り=生きることである。「カップラーメンをなぜ作ったか?」という問いに対しては、安藤百福は「満腹だと喧嘩しないから」だと答えている。旧石器時代(氷河期時代)の服は、マンもモスの毛皮を打製石器で剥いで作っていた。 演題は「人は、どうやってモノづくりを伝えてきたか?」、グループ名はカップラーメン、共同著者は鈴木純奈、松本碧衣、笹原里音、青木優菜、私は記録を担当した。古代?は口承と模倣、古代?中世は図・絵・記号による記録、中世?近世は書物・手引書、産業革命以降は学校・職業訓練制度、20世紀?は写真・映像・デジタル化、現代はインターネットとオープンソース、これからはAIとVR/ARによる技術伝承によってモノづくりを伝えていくと考えられる。 復習として、「もの作り=生きること」について考える。ものづくりは生活を支える道具や食べ物、住まいを生み出す行為であり、人が生きていくために欠かせない。昔から工夫や技術を積み重ねてきたのは、生きる環境をよりよくするためだ。生きるための手段が、やがて文化や産業へと広がっていったと考えると、ものづくりの力は本当に偉大だと感じる。
A.1/講義の再話:人がものを作らなければならない理由は、生活の質を向上させ、社会を発展させるためである。昔から人間は、自然の中で生き延びるために道具を作り、衣食住を確保してきた。たとえば、寒さを防ぐための衣服や、食料を保存するための容器、雨風をしのぐための住居などは、すべて「ものづくり」によって生み出されたものである。さらに現代では、医療機器や交通インフラ、デジタル機器など、人の安全や快適さを支える多くの製品が求められている。また、ものづくりは単に利便性を追求するだけでなく、技術革新や経済活動を通じて雇用を生み出し、社会全体を支えている。今後も環境への配慮や資源の持続可能性といった課題に対応しながら、人々の暮らしを豊かにするために、ものづくりは欠かせない営みである。 2/発表の要旨:「人は、どうやってモノづくりを伝えてきたか?」 今回私たちのグループはスマホと腕時計を工業製品の例として選んだ。 次に、どうやって技術を継承するかについて提案する。以下のいくつかあると思った。 1.現場でのトレーニングの強化:熟練職人のそばで、若手が直接見て、触って、真似して学ぶ。昔の「徒弟制度」に近い形。ポイントは「見る」ではなく「共にやる」こと。 2.「見える化」+「デジタル化」:技術は暗黙知になっていることが多い。高速度カメラ、AR、3Dモデリングなどを使って作業を「見える化」し、記録して、マニュアルや教材に落とし込む。 3.技術者本人が教育者になる意識を持つ。「俺の背中見て覚えろ」だけでは限界がある。 3/復習の内容:人はなぜモノづくりをしなければならないのか。それは単に生活を便利にするためだけではない。モノづくりは、人類が生き延び、進化していくための根本的な行動であり、文化の継承や社会の発展にも深く関わっている。 私たちの祖先は、石器を作ることで動物を狩り、火を起こすための道具を生み出した。農業が始まると、鍬や鎌などの道具が必要になり、さらに文明が発展すると、文字や印刷技術、機械、そしてコンピュータのような高度な技術が生まれた。これらすべてはモノづくりの成果であり、人間の創造力の結晶である。 また、モノづくりを通して人は他者と協力し、知識や技術を世代を超えて伝えてきた。そこには「学び」と「伝承」のプロセスがある。見るだけではわからない技術を、実際に手を動かし、失敗しながら身につけていく。この過程こそが人間らしい成長であり、そこにこそモノづくりの価値がある。 さらに、現代のモノづくりは経済や産業にも大きく関わっている。自動車や電子機器など、日本の強みとなっている分野の多くは、職人の技術や現場の工夫から生まれている。もし私たちがモノづくりをやめてしまえば、その文化とともに社会の活力も失われてしまうだろう。 だからこそ、モノづくりは人にとって不可欠な営みであり、未来に向けて継続し、発展させていくべきものである。
A.戦争の勝敗を決めたのは工業力が大きく、敗戦後の日本は食糧難に陥りました。チキンラーメンは戦後に発明された量産可能な製品の一つです。旧人類は長距離移動のために毛が退化したため、氷河期を超えるためには衣服が必要です。服が作れなかった人間は死んでしまいます。毛皮をとるためには狩猟が必要ですが、狩猟のためには狩猟道具が必要です。道具には黒曜石が使われていました。その後、獲物の変化に合わせて弓と矢が登場しました。モノづくりは生きることと直結しています。容器、物々交換、貴金属、貨幣の登場や交易ルートの開拓と文明が進歩します。特に貴金属の銀はよく使われていました。金属工業は道具の製造に使われ、まきびしや鉄砲の製造に使われました。そこから大量生産に時代は進化します。これらの技術は様々な形で継承されていましたが、今は特許などの法的な手段で技術を取り扱っています。人が技術を伝える方法は書籍、師弟関係、特許、ネット、教育機関があると考えました。人がモノを作らなければいけないのは生きるためだと思います。一方で時代を経るごとに目的が少し変化していると考えます。これは衣食住の安定という原初の目標が達成されたため、より便利な暮らしをすること、他国よりも発展することに焦点が当たったことが原因だと考えられます。
A. 今回の講義を通して、幸せを得るために人間がどのように発達していったかを学んだ。人間は最初、モノの量によって、経済力が示されていた。そのため、モノを保存することで、食料などを貯め経済力を示していた。次第に物々交換が始まり、経済が発達しだした。その後、モノの物々交換から貨幣を使った経済へと発達し、銀が使用されるようになった。近代では、紙幣が用いられるようになり、現代では、デジタルマネーへと発達した。 グループワークを通して、人はどうやって日本刀のつくり方を伝えてきたのかを学んだ。昔の日本は従弟制度であり、師匠から弟子へと製法を伝えてきたことで語り伝えてきた。また、講演会などを通して、言葉として伝えてきたり、文字として記録することで後世に受け継いできた。 また、個人ワークでは工業製品として、カップヌードルを選んだ。カップヌードルは、1971年に日清食品の創業者である安藤百福によって発売された。 カップヌードル製造のきっかけは、アメリカ人が即席のヌードルをコップに入れて食べているのを見て、最初からコップに入った状態で売るほうが簡単に作れて、邪魔にならないのではないかと考えたからだ。1960年代日本は、高度経済成長期に入り、サラリーマンが増加し、時間の無駄を極限まで減らそうと考える人が増加した。そのため、このサラリーマンの人たち向けに安く簡単に作ることのできるということをコンセプトにカップヌードルの製作を行っていたが、あまりヒットしなかった。しかし、浅間山荘事件でテレビに取り上げられたことがきっかけとなり、安く、簡単に作れて、保存もきいて災害時などの避難食にも用いることができるという汎用性から世間に知られた。これらから、人は、生活を便利で、住みやすい環境にするためにモノづくりを行っているのではないかと考える。
A.①講義の再話 本講義では締めとして、なぜ人は物を作るのかについての講義がなされた。また、授業全体を通してまとめとなるポスターを作り、各々で講義のつながりや、学んだことを復習した。自身は特に第9回の授業が印象に残っており、繊維を布にする過程での織り方や編み方などを図を用いてまとめた。ものづくりは人の生活を豊かにし、生きていくために必要不可欠であり、時代の変化に伴って新たな製品の需要が生まれ、次々に工業が発展していったと考えられる。 ②発表の要旨 人はなぜ物を作らなければならないのか、グループで議論した。産業用冷蔵庫の技術継承について考えたところ、まず教育カリキュラムの再編としては、熱力学の理論、冷凍サイクルの理論を応用していると考えた。また、メンター制度というものがあり、実際の業務を通して、知識やスキルを習得している。また、技術者同士が交流を深めることで、技術を絶やすことなく継承させていると考えた。 ③復習の内容 「なぜ人は物を作るのか」を考察し、繊維加工や技術継承の重要性を学んだ。第9回では織り・編みの工程を図で整理し、冷蔵技術の教育やメンター制度の役割も理解した。近年はAI活用による技能継承も進んでいる。
A.前回の復習としてカップラーメンの作り方を復習した。なぜカップラーメンを作らないといけないのかというと、非常食として使えるからだと考えた。チキンラーメンが1番先に出来た。冷たい気候の地域では、毛マンモスなどの毛皮を使用している。 今回の発表では、ヒトがモノづくりを伝えてきた方法について調べた。精密金型という技 術があり、自動車部品や電子機器の筐体など多くの工業製品の量産には高精度な金型が必 要不可欠である。金型は「製造業の母」とも呼ばれ、その加工精度、熱処理技術・組み立て ノウハウは非常に高度かつ経験依存型である。現状はベテラン技術職が「勘・コツ・経験」 によって工程を最適化し、大学や高専と地場企業が連携し教育を行うことで技術を後世に 伝えている。 カップラーメンは非常食にはならないため他に非常食について学んだ。代表的なのは、水や湯で戻せるアルファ化米、すぐに食べられる缶詰、温め不要のレトルト食品、エネルギー補給に便利な栄養ビスケット、そして水分補給用の飲料水。災害時に備え、安全・栄養バランス・保存性が重視されています。
A.①モノづくりの歴史について学びました。まず、旧石器時代では石を砕いて作る打製石器、石を削って作る磨製石器などが作られていました。それらの石器から武器を作り、集団でマンモスなどの動物を狩り、生活していたことが分かりました。マンモスの毛皮は衣服に、牙や骨などは道具に用いていました。また、現代ではカップラーメンなど、忙しいときでも手軽に食べれるような食品が開発され、生活が便利になりました。 ②グループ名はC班です。グループメンバーは小野翔太、鈴木晴琉、黒沢行博です。人はどうやってモノづくりを伝えてきたかについて議論し、まとめました。ノウハウが書かれた書物を作り、誰が読んでも分かりやすいように、できるだけ詳しく書くことで、人手不足でも伝承していけるのではないかという意見にまとまりました。身近な日常生活の例としては、鈴木はるの実家では、祖母の料理のレシピ(玉こん、マイタケのお吸い物、ほうれん草の胡麻和え)などを見ることで、家族みんなが誰でも作れるようになっていました。 ③復習では、カップラーメン製造の技術について調べました。まず、乾燥技術です。麺を成形後高温の油で揚げて水分を飛ばすことで空洞ができ、スポンジ状の構造になります。この構造がお湯でもとに戻ることを可能にしています。具材も同様にフリーズドライまたは熱風乾燥ですぐに復元可能にしています。次に、保存技術です。水分が極限まで飛ばされているので腐敗しにくく、ビタミンEなどの酸化防止剤や脱酸素剤を同封することで劣化を防止しています。また、カップの内側にアルミ蒸着フィルムを使用することで、湿気、酸素、光を遮断しています。ほかにも容器にも工夫が施されています。主流は発泡ポリスチレンで、軽量であり、耐熱性に優れた材料を用いています。環境への配慮で紙カップを用いている商品もあります。
A.①氷河期には寒さをしのぐために毛皮が重要であり、マンモスなどの大型動物の皮を石器で剥いで利用していた。打製石器として黒曜石が使われ、縫製には動物の骨が針の代わりとなった。寒冷地では表皮面積が小さいほうが体温を保ちやすく、大型動物ほど生存に有利だった。人々は生きるために道具や技術を発展させ、やがて工業が生まれた。物々交換は貨幣経済へと移行し、シルクロードを通じて文化と資源が広がった。鉄鉱石などの資源も交易の要となり、文明の基盤を築いた。 ②カルビーのポテトチップスについて調べた。塩味やコンソメ味が開発された年なども調べた。アメリカ発祥であり、現在では健康志向の高まりに対応して商品を開発している。 ③工業製品の技術継承には、現物の分解・組立を通じた実習と熟練者の作業を直接観察する機会が不可欠である。文献だけでは限界があり、集団内での経験共有が鍵となる。工学部で技術継承が機能しない原因は、実践教育の不足と、教員の現場経験の乏しさにある。
A. 第15回の講義では、「人類はなぜ物を作る必要があったのか」をテーマに講義を進めていった。ヒトがなぜ物を作るようになったのか、それがモノ作りが生きることと直結していたからである。狩の道具や衣類、調理器具など、これらを自力で作れなかったものは死に至る時代であったことが、モノづくりが始まった理由である。氷河期には寒さをしのぐための衣服を、戦国時代には生き抜くための銃を、高度経済成長期には物や人を運ぶための自動車・新幹線・鉄道をつくり、時代に合わせてモノづくりの様式や精度も進化していったことを学んだ。 グループディスカッションでは、「演題:どのようにものづくりを伝えてきたか(グループ名:左前、共著者名:大濱風花、近ありす、鈴木結惟、島貫乃愛、増子香奈、役割:発言者)」について話し合いを行った。私たちは米沢の伝統工芸品である米織りについて調査した。米織りは草花染めによる手織り技術である。江戸時代初期、直江兼続が特産物を奨励したことにより発展し、1776年に上杉鷹山の産業開発の一環として、家中の女子に織り方を習得させたことで伝承されてきた。しかし、現在は人手不足、後継者不足により後退しつつあることから、小学校や中学校で織物教室を開催し、子供たちに体験してもらうことで興味関心を引き付けることがいいのではないかという意見が出された。 この米織りのように、今注目から外され衰退しつつあるが、実は私たちの生活に大きく影響している工業製品はたくさんあるはずである。今、昔から続いてきた伝統あるものづくりよりもITやエンジニアリングといった業界が注目されがちである。しかし、工学部である身として、私たちはもっと様々なものづくりの現場を知り、興味関心を寄せていく必要があると感じた。
A.①なぜ食べ物を作らないといけないのかについて講義の中で考えた。具体的には、食べ物を食べることは生きるためのエネルギーとなり日中の活動を支えるものとなる。そのため食べ物は生きるためのエネルギー源であり、体の成長と修復に不可欠である。またその他にも、健康維持と病気の予防につながったり、運動能力の向上につながったりするからであると考えた。また昔の、畑作と人間関係について考えると、昔は、土器などが貴重であったり畑が貴重であるため、土器を作れることや、畑を持っていることなどが、人の優劣を決めていた。そのため、土器を作れないなら何かと引き換えに土器を使ってあげるといったことが起こっていた。つまり、昔は畑や土器の製造法などは高付加価値のあるものであった。 ②発表の要旨として今回は、なぜ人は食べ物を作らないといけないのかについて発表が行われた。その中で、食べ物は生きるためのエネルギーとなるため、生きるために作る必要があるという意見があった。エネルギーとして運動能力の向上や、健康維持にも役立つという意見があった。 ③今回の授業では、なぜ人は食べ物を作るのかについて焦点を当て講義を進めた。当たり前のことに意味があり、その再確認となった。また、昔の畑や土器の製造について人間関係の中で重要な価値を持っていたということを理解することができた。
A.①第15回は人がモノづくりを行う理由についての授業であった。物質の単位質量当たりの表面積のことを比表面積といい、比表面積が大きいほど熱の移動が促される傾向にある。体積と表面積の関係は、表面積は体積に比べて速い速度で増加する。そのため体積に対する表面積の比率が小さくなる、すなわち比表面積が小さくなる。このため体の大きい動物の方が熱の拡散が遅くなる体温維持にはマンモスのような大きい動物が有利である。また、動物の毛皮は衣類などに用いられる。毛皮は石で剥いだのちに骨で縫って布として利用できる。モノ作りは生き物が生きるために行うことである。このように手作りから始まったモノ作りは産業革命を経てエネルギーを使って量産できるようになる。 ②授業最後の演習ではどのようにモノづくりを伝えたかについて議論した。班は大濱風花、近ありす、立花小春、鈴木結惟、島貫乃愛、増子香奈の6人であり、班名は左前、役割は記録であった。私たちは米沢の伝統工芸品である米織に着目して議論した。米織は草花染めによる手織り技術であり、染色科の学校ができたことで伝承した。また、江戸時代の初め、直江兼続が特産品を奨励する働きを促した。1776年には上杉鷹山の産業開発により家中女子に米織の織り方を習得させた。 ③この授業の復習としてなぜ人はモノを作らなければならないのかについて考えた。これには様々な理由があると考えられる。1つ目は生存と生活の維持のためである。衣食住の確保や健康、移動手段の維持のためにモノ作りは欠かせないと考えられる。2つ目は社会性の構築と維持のためである。情報伝達のための道具や表現のための道具を作る必要があり、このようなコミュニケーションや、法律を記録する媒体、権威を示す象徴物を作るなどの社会秩序の維持のためにモノづくりは大切であると考えられる。
A. 人は物を作ることによって環境に適応したり、生活をより良くしたりなどとしてきた。火をともして明かりを得て、暖をとり、衣服を作ることによって寒さに適応し、そのために狩猟の道具などが作成されるなどした。氷河期ではマンモスから毛皮を得るために手段で狩りをし、毛皮をはぐために打製石器が作られ、得た毛皮を縫うために骨が活用された。このように生きるために道具が生み出され発展し、人々の生活がよりよくなっていった。また、そこから工業が進むにつれて作れない人に対して売るということから商業が始まり、工業として手作業からエネルギーを使った工業へと移り、個人から組織商業のための工業へと変化していった。 「人は、どうやってモノづくりを伝えてきたか?」「グループ名:和包丁」「共著者名:佐藤 光介、須藤春翔、山口竜輝、宮内大輝、中澤祐人」。和包丁は伝統工芸の一つであり、人伝えなどによって伝承してきた。伝統工芸の担い手が少ない現在では、海外との交流による海外での技術の保存、教育プログラムを作りいつでも伝えることができるように準備し後世に伝えることが重要である。 現在では人々の生活をより良くするために商業としてのモノづくり、組織工業が広く行われている。日本の製造企業は純利益がリーマンショックの後、大幅に減少した後には右肩上がりとなっており、整腸を続けている。日本の製造業は大規模市場というよりは市場の多角化によって売り上げを上げており、これは収益性を下げる傾向になるという。利益を上げられるように支えることが重要であり、技術の発展が重要な時代であると思わされる。
A.第14回のカップラーメンの製造から深堀してどうして乾麺を作らなければ行けなかったのかについて講義を受けました。カップラーメンの製造は日清食品の創業者である安藤百福が、インスタントラーメンをより手軽に食べられるようにしたいという思いから開発されました。 戦時中に安藤百福がフォークで食べれる麺を作ろうとし、そのきっかけは戦後の飢えと混乱がありました。また、旧石器時代の衣服の作られ方、昔の矢の作り方などから、それらがどのように役に立ってきたのかを調べました。 発表では人はなぜ物を作らなければならなかったのか、ドラマを持つ工業製品について調べました。私たちの班ではカルビーポテトチップスの歴史について調べ、1853年にアメリカで発祥したポテトチップスを参考に1949年に広島で創業されたカルビー株式会社ははじめ、GHQ向けに作っていたものの、手軽に楽しめるポテトチップスとして1963年に一般向けに販売を開始したそうです。 復習としてカルビーのポテトチップスに対しての思いを調べました。 『全てに共通しているのは「最高の1枚を届けたい」という思い。 ひとりじゃつくれないからこんなにおいしい』というキャッチフレーズのもと、畑に対してのこだわり、ジャガイモに対してのこだわり、味に対してのこだわり、品質に対してのこだわりを知ることができました。
A.カップラーメン等の食べ物が作られた理由として、手軽に短時間に作ることができるためである。また、人は生き残るために服を作った。氷河期においてはマンモスのように体長の大きい動物が生き残っており、その動物の皮を剥いで服を作った。その服を作るとために、割って鋭利にした石や骨などを用いて製作していた。そして、人は物々交換から貨幣の導入へと変化し、経済の発展が進んでいった。 ワークショップの演題は、人はどうやってモノづくりを伝えてきたかであった。グループ名はモノづくりで共著者名は、笹原里音、鈴木純奈、今山華百、松本碧衣で、自分の役割として調査者であった。まず古代では口承と模倣によって伝えられ、中世では図や記号、中世から近世では書物で伝えられた。20世紀以降は写真等のデジタル化で、現代ではインターネットで伝えられ、これからとしてAIの発展によって伝えられていくと考えられる。 授業終了後には復習として、人はなぜモノを作らなければならないのかについて考え、スマートフォンという工業製品について取り上げた。スマートフォンの製作によって連絡手段やあらゆる場面で人々の生活を豊かにしたが、レアメタルの枯渇問題やその採掘の環境問題が挙げられる。このドラマを抱えた上で、それでも人はより良い暮らしを求め、技術の発展を継続するためにモノを作らなければならないと考えられる。
A.1.カップラーメンがつくられたのは、戦後すぐの闇市の状態を見た安藤百福さんが、簡単に栄養のあるものを食べられるようにと考えたのがきっかけで作られた。これは、食の部分の発展に話である。衣の発展は、石器時代までさかのぼる。氷河期を迎えた地球では、生き残るためにマンモスを狩り、その毛皮を割った石で剥ぎ、骨を使い縫い合わせていった。その後、ものを保管できるようになり、商業が発達し、経済、貨幣などが栄えた。このようにモノ作りは生きることと直結している。 2.私たちのグループでは、グループ名をC班とし、ヒトはモノづくりをどのように伝えてきたかを考え、ディスカッションした。 伝える手段として、ノウハウが書かれた書物をつくる必要があると考えた。また、この書物はいつどの年代の人が見ても、全くすべて同じに作ることができるように詳しく書く必要があると意見が出た。 3.チキンラーメンの創始者である安藤百福さんについて調査した。若いころから独立心と事業意欲が旺盛であり、様々な企業を設立し、成功を収めていた。
A.①氷河期・今日石器時代の服の作り方について。当時はマンモスの毛皮を用いて製造する。マンモスから皮をはがす方法は打製石器を用いることが主流であった。当時は物を作れない人間は滅びる。物を作ることができないことと生きることは直結する。 ②発表では、時代を通した情報の伝達方法について調査した。古代は口承と模倣により、中世までは図・絵・記号による記録により、近世までは書物・手書き書により、産業革命以降は学校・職業訓練制度により、20世紀以降は写真・映像・デジタル化により現代はインターネットとオープンソースにより情報が伝達されてきた。これからの時代はAIとVR・ARによる技術によって伝承していくことが分かった。 ③復習では、情報伝達の課題について調査した。将来の情報伝達の課題としてデジタル格差、情報セキュリティ、情報リテラシーの不足が挙げられる。情報化社会において、誰もが情報の収集ができるようになり、適切な情報の発信を目指して教育していくことが大切である。
A.人はなぜ食糧生産を行うのか?それは食べねば死んでしまうから、生き残るために作るのだ。同じように旧石器時代の人類は服を創り出す必要があった。そこでマンモスを狩り、その毛皮を石器ではがし骨の針で縫うことによって衣服を制作した。水を入れる容器が必要であれば土器を作った。生き残るためにモノづくりをしていたのだ。そのモノづくりの延長上に今の工業がある。違いがあるとすれば技術というものが個人所有から組織所有のものへと切り替わっていったことであろう。そして次世代の作り手たちへと技術を伝える方法も大切であることを学んだ。 発表としては後世へ技術を伝えるための方法として本や図面に記入して伝えたり、データ化してクラウドにアップロードしたり、実際に口頭で教えたりしながら伝わっていくのではないかと予想をした。 復習として、トヨタについてアメリカよりもすごい車を作ろう!との思いから会社を設立したとの話があり、どのようにしてトヨタが大きくなっていったのか気になったため調査を行った。創業者・豊田喜一郎の「日本人の頭と腕で自動車をつくる」という強い信念と、それを支える独自の生産方式がトヨタを大きくしていた。まずジャスト・イン・タイム(必要なものを、必要な時に、必要なだけ生産する)という考え方ど積極的な次自「働」化がトヨタの大きな特徴である。高度経済成長期には国民車構想に応えるカローラを発売し、モータリゼーションを牽引した。また、オイルショックや環境問題の高まりに対しては世界に先駆けてハイブリッド車(HV)であるプリウスを開発し、市場をリードした。これらの戦略的な製品開発と、独自の生産方式がトヨタの飛躍的な成長を支えたということが明らかとなった。
A. カップラーメンは、日清食品の創業者である安藤百福が1971年に開発した「カップヌードル」が起源である。カップヌードルが開発された歴史的な背景としては、第二次世界大戦後、日本は深刻な食糧不足に直面していた。その時に安藤百福は、大阪の闇市でラーメンに長蛇の列ができているのを見て、「だれでも簡単に食べられるラーメン」の必要性を感じ、1958年に「保存性・簡便性・衛生性・価格・おいしさ」の5条件を満たす即席麺「チキンラーメン」を開発した。 今回の発表では、ヒトがモノづくりを伝えてきた方法について調べた。精密金型という技術があり、自動車部品や電子機器の筐体など多くの工業製品の量産には高精度な金型が必要不可欠である。金型は「製造業の母」とも呼ばれ、その加工精度、熱処理技術・組み立てノウハウは非常に高度かつ経験依存型である。現状はベテラン技術職が「勘・コツ・経験」によって工程を最適化し、大学や高専と地場企業が連携し教育を行うことで技術を後世に伝えている。 カップラーメンは保存食ように開発されたと考えていたが、授業でカップラーメンはお湯を用いる必要があるため、非常食としては使われないことが分かった。そこで、代表的な非常食である「アルファ化米」について工業的な製造方法を調べた。炊飯した米を急速乾燥させて、でんぷんをα化した状態で保存するのが特徴である。製造工程では、まず精米・洗米後に炊飯し、熱風乾燥機で水分を除去。次に、酸素や湿気を遮断する特殊パッケージに密封し、金属探知機やX線で異物検査を行う。保存料は使わず、HACCPに基づく衛生管理で長期保存を実現している。
A.①今回の講義では、「ヒトはなぜモノを作らねばならないのか?」という根源的な問いから、私たちの生活と創造の密接な関係性を深く考察しました。人類は原始時代から、生存と生活の向上を目指し、衣食住の基本を満たすためにモノを作り続けてきました。初期の打製石器から、より効率的な磨製石器へと進化させたように、道具の改良は生活を豊かにする原動力でした。この進化の過程には、先人の知恵と技術が次世代へと確実に受け継がれる技術の継承が不可欠でした。さらに、身近な例として安全マッチのような発明は、火の利用を安全かつ容易にし、日々の暮らしに大きな変化をもたらしました。このように、モノ作りは常に人間の幸福と直結してきたのです。 ②人間がモノを作る根本的な理由は、ひとりひとりの幸せを追求し、生活をより豊かにするためです。このモノ作りの営みは、単なる発明に留まらず、その知識や技能が世代を超えて伝えられる技術の継承によって、人類全体の進歩を促してきました。例えば、現代社会の食料供給を支える産業用冷蔵庫は、冷却技術の基礎から始まり、効率性や環境負荷低減を目指して改良が重ねられてきた結果です。この発展は、先人たちの熱力学や材料科学に関する知見が、後の世代の技術者へと確実に受け継がれ、さらに発展させられた典型例であり、技術の継承が私たちの生活の質を向上させる上でいかに重要であるかを示しています。 ③今回の講義の復習として、まず「ヒトがモノを作るのはなぜか」という問いに対する答えとして、衣食住を満たし、ひとりひとりの幸せを追求するためであることを理解することが重要です。原始時代における打製石器や磨製石器の進化は、人類が生活を向上させるために道具を創造してきた歴史を示しています。そして、この進化の背景には、先人の知恵や工夫が次世代に伝えられる技術の継承があったことを再確認します。安全マッチのような身近な発明が、いかに人々の生活の安全性や利便性を高めてきたかを考察することで、モノ作りが私たちの幸福に直結しているという本質を深く理解できます。
A. 第15回のテーマは「ヒトはなぜモノを作らねばならないのか?―ひとりひとりの幸せを大切にするためにー」であった。 グループワークのテーマは、「ヒトは、どうやってモノづくりを伝えてきたか?」であった。私たちのグループでは、「米沢織」について調査した。米沢織は、明治25年に米沢絹織物物業組合が設立され、数々の発明により発展してきた。 グループワークのテーマは、「ヒトは、どうやってモノづくりを伝えてきたか?」であった。私たちのグループでは、「米沢織」について調査した。米沢織は、明治25年に米沢絹織物物業組合が設立され、数々の発明により発展してきた。 グループワークのテーマは、「ヒトは、どうやってモノづくりを伝えてきたか?」であった。私たちのグループでは、「米沢織」について調査した。米沢織は、明治25年に米沢絹織物物業組合が設立され、数々の発明により発展してきた。 今回が最後の授業であったため、全講義のまとめもした。
A.① ② ③
A.1.戦争直後、深刻な食べ物不足に陥っていた日本で、チキンラーメンが開発された。今でも市販されているロングセラーである。また、安藤百福によってカップヌードルが誕生した。世界に湯を入れるだけで食べることができるラーメンを広めたいという意思から生まれた。一方、旧石器時代の人々は試行錯誤して道具を製作し、マンモスといった動物を狩猟していた。このように、人はものをつくることで生存してきたことがわかる。 2.演題:人はどうやってモノづくりを伝えてきたか 共著者:向田有稀、金子乃々楓、山?紀々香、山根寿々、永井日奈 自身の役割:調査 産業用冷凍庫の技術を継承する方法を4つ調査した。1つ目は、教育プログラムの再編である。大学で熱力学の理論や冷凍サイクルの理論などを学ぶことができる。2つ目は、先人の行動データを可視化することで継承する方法である。3つ目は、メンター制度である。長歴の技術者が若手の技術者1人または2人を指導し、実際の業務を通して知識やスキルを習得させる。4つ目は、技術者同士で交流を行う方法である。 3.技術継承の方法を調査し、人同士の信頼関係が欠かせないことを実感した。現代では無数のモノづくり技術が存在し、既に失われたもの、今後失われる可能性のあるものも沢山ある。継承の方法に限らず、人と人とのつながりが技術継承に最も必要だと考えた。
A.大東亜戦争のきっかけは石油がないからである。終戦後は深刻な食料不足である。空腹の子供、人のためにチキンラーメンが開発された。次に世界の飢えている人のために簡単に作れて、食べやすいものとしてカップヌードルが作られた。 体温維持も人が生きる上で重要である。旧石器時代、氷河期では衣服をマンモスの毛皮で作った。比表面積は物体が小さい方が大きい。体温維持には体が大きい方が有利である。マンモスを狩るには集団で行う。皮を剥ぐときに使う石は鋭利な石特に黒曜石を用いる。服を縫うときに骨を用いていた。氷河期が過ぎると、運動量が多いほうが有利になる。そのため飛び道具、弓がでてくる。矢尻には黒曜石が用いられていた。当時はものづくりは生きることに直結していた。経済は物々交換からはじまり貨幣に変わっていった。貨幣の前は銀が用いられていた。イエズス会が日本に貨幣社会を持ち込んだ。農業ができない地域だと高付加価値のものの生産が必要になった。産業革命では蒸気機関を用いて大量生産が始まった。日本の車生産の始まりは関東大震災後にバスなどが必要だったが、アメリカが高い値段で売ってきたため、作ることになった。戦闘機の技術を利用して、新幹線ができた。 モノづくりは口伝や技術書などで伝えてきた。和包丁は教育プログラムやインターシップ、海外交流などを利用して後世に技術伝承しようとしている。 見て学ぶは他社の行動や様子を観察して、それを真似ることで知識や技術を習得することから来ていて、人は成長においては小さい頃は母親の真似から始まるため、真似ることは学習の基本とも言える。
A.①今回の授業では初めにカップラーメンが製造された背景について学んだ。日本の不景気や物価高により政府にヤジが増え、国民が疲弊している中手軽に食べれる食材として人気になった。また、旧石器時代から体温維持の大切さについて学んだ。氷河期に備えて火を起こし、火を使って温めていた。また、狩りによる動物の皮で布を作った。このように昔の人も体温を維持していた。体温維持の大切さは、現代でも災害時などで生かされる。 ②グループワークでは、工業製品としてカルビーのポテトチップスについて議論した。ポテトチップスは、1853年にアメリカで発祥した。カルビーは、1949年に広島で創業した初めはGHQに向けられた商品だったが、1963年に一般向けになった。1975年にうすしお味が発売され、手軽に楽しめるポテトチップスとして親しまれた。1990年から2000年代に健康志向の高まりに対応して、油の品質向上で体に良くなった。 ③今回の授業では、人はなぜものを作らなければならないのかを主なテーマにして行われた。具体的には、カップラーメンが製造されたのは、忙しい現代人でも食べられるように作られたと考えられた。物価高により疲弊した国民のために作られた。一方で、災害時はカンパンなどの方が向いている。また人間の生活において体温維持が大切であることを学んだ。どの時代でも、人間の生活を豊かにするためにものは作られ続けていたことを学んだ。
A. ひとは物を作らないと、生きることができない。旧石器時代には、寒さを防ぐために、毛皮の服を使用していた。比表面積は粒子径が小さい方が大きくなる。また、大きい動物の方が、体温維持に有利である。マンモスの皮を剥がすために、打製石器など、尖った石を用いる。そして、服の形にして、骨を用いて、縫う。 土器の生成方法について、粘度を採取して、焼成まで行う。戦国時代のものづくりの職人の例として、国友衆が挙げられ、この職人たちによって、鉄砲が伝わった。 グループワークでは、ヒトがどうやってモノづくりを伝えたのかをまとめた。伝統工芸品として、花笠を挙げた。現在、花笠は、日本人の職人が減少していて、ベトナムでの生産が増加している。花笠は、米織を用いられている。染織本科の学校がつくられ、花笠の生産が広まっていったことが分かった。また、江戸時代の初めに直江兼続が特産物を奨励したことも原因となる。1776年に上杉鷹山の産業開発によって、家の中の女子に折り方の習得が行われたと分かった。
A. ① ヒトは、歴史において生き残るためにモノを開発していった。体毛を退化させた人間は体温を維持するため、石器で毛皮をはぎ骨を針として服を作り、弥生時代には増えるヒトを餓死させぬため農具を開発し、抗争から生き残るため鉄器を求め、時代とともに、生き残るために多くのものが次々に開発され、より人間が生きやすい世界になっていった。また一方で、生きるために作られた技術は真似され、教えられ、広がり受け継がれていった。 ② グループでは、技術を継承する方法について、議論を行った。技術を伝承する方法として、書籍を用いて伝えること、師匠など人間関係の間で受け継がれること、特許などライセンスとして残すこと、ネットの記事などに書き残すこと、大学や専門学校など教育機関で後任を育成することなどが挙げられた。挙げられた中で、書籍、特許、ネットは技術の方法を詳細に記すことで継承する点が共通しており、教育機関、師弟関係は専門的な知識を持つヒトから学ぶという点が共通点として見られた。 ③ 復習として、自分でもヒトがモノを作る理由について考えた。自分がモノを作る理由について考えたとき、発明だけでなく改良もモノづくりの一面であると考えた。また、歴史的に発明された製品の多くは、より安全により効率的な形に完了されていったことから、ヒトがモノを作るのは、ヒトが持つ願いをヒトに合った形で示すためであると考えた。
A.人はどうやってものづくりを伝えてきたかを考える。工場のしくみよりカップラーメンの作り方を学んだが、ラーメンを作り揚げて梱包していた。このようにする理由は簡単に食べられるようにと安藤百福がつくったチキンラーメンがもとになっている。そもそもなぜ人はものづくりをするのかというと旧石器時代にさかのぼり、当時はものづくりをしないと狩りが出来ず死んでしまったからといわれている。つまりモノづくりをしないと生きていけなかった時代の名残が今も残っている。 演習では工業製品をひとつ選び、その生産技術を具体的にどうやって継承していけばよいかを考えた。現在の問題点としてマニュアルや手順書を作る手間がかかる、見て覚えるという教育体制が根付いていて若手の育成に歯止めがかかるなどで若手が育ちにくいあった。このことから同じような産業の会社で連携して教えあうことで若手が育ちやすい環境づくりがされると考えた。 別の演習ではドラマを抱えた工業製品をひとつ選んで、人はなぜモノを作らなければならないのかについて考えた。DDTを取り上げた。マラリアや発疹チフスといった感染症対策に絶大な効果を発揮したことから夢の殺虫剤と呼ばれた。しかし、分解されにくいことから環境中に残り生物の中で濃縮して悪さを起こすことが後に判明し現在使用が制限されている。これを改善したものでメトキシクロルが使われており、このことから人の役に立つものを作り、改善することで社会をよりよくするため人は物を作ると考えた。
A.①講義ではヒトがなぜモノを作るのかについて学んだ。人々は生きるためにモノを作り寒さをしのぐための毛皮の加工や狩猟のために石器を発展させてきた。モノ作りは時代とともに手作業から工業へと発展してきた。体積が大きい動物ほど比表面積が小さく熱が逃げにくいため寒冷地に適応してきた。カップラーメンの誕生は戦後の飢餓に対する工業の成果である。 ②グループワークでは人々がどのようにしてモノづくりを伝えてきたかについて議論、調査を行った。私たちの班では日本刀や漆について調査を行った。方法の一つとしてまず師弟制度があるとわかった。これは師匠が弟子に対して技術を教えるものであった。また、ほかには講演会である。講演会を開き広く様々な人に伝える手法である。他には文章や図として記録するものがあった。 ③復習ではモノづくりが途絶えてしまうときの要因を考察した。需要の減少や生活様式の変化によって途絶えてしまうと考えた。手作業で行う伝統技術などは機械化による大量生産に加え、若者の興味関心が薄れることなどによって継承がされにくくなっていると考えた。また、戦争や災害などの環境的な要因も考えられると思う。
A. なぜモノを作るのかについて学んだ。旧石器時代ではマンモスから服をつくり、また狩るための矢なども作っていた。モノを作れなければ死んでしまう。昔の人にとってはモノづくりは生きることであった。それから、カップラーメンのようなものは、短い時間で簡単に食べることができる。作られた背景として敗戦後の物価高が関係している。腹が減っては生きていけない、腹がいっぱいになればけんかは起こらない。日本は敗戦からスタートした。現在では技術者が減少しているため技術の継承が難しくなっている。 グループで議論した演題は、人はどうやってモノづくりを伝えてきたか?で、グループ名は左前でメンバーは近ありす、大濱風花、立花小春、鈴木結惟、島貫乃愛、増子香奈であった。自分の役割は、発言であった。私たちのグループは米織りについて調べた。米織りは草花染めによる手織り技術である。染色料の学校ができたことで技術を伝承していた。また、上杉鷹山の産業開発によって家中の女子に織り方を習得させていた。 米織りは経済的に苦しい状況にあった藩財政を立て直すために、武士の婦女子に機織りを習得させたのが米織り業の発祥とされている。先進地であった新潟県の小千谷より技術者を招いて、縮布の生産が成功し、麻織物から米織りが広まった。発展のために米沢高等工業学校が開設され、染色科ができた。米沢機業に多くの影響を与え、大きな功績を残した。米織りの技術を継承していくには、多くの人に魅力を知ってもらいブランド化することや映像記録を残して若手の育成を充実させることなどが必要であると考える。これによって米織りだけでなく、地域全体の活性化にもつながると考えられる。
A.①テーマはヒトがモノを作る理由についてである。カップラーメンの場合は、安藤百福が戦時中の空腹の人々のために短時間で作れて、簡単に食べられるものを目指してチキンラーメンを作った。氷河期の場合は、体を温めるために動物の毛皮を石で剥いで骨を削ったもので縫うことで服を作った。このように、モノづくりをつきつめると生きることであると言える。 ②ヒトはどうやってモノづくりを伝えてきたかの発表でのグループ名は未定で、グループのメンバーは私を含めて宮入丈、佐藤優生、佐々木悠杜であり、私の役割は原稿作成であった。モノづくりの伝え方には、書籍、師匠から弟子への継承、特許、ネット、教育機関といった意見が挙げられた。 ③102【平常演習】「人はなぜ、モノを作らなければいけないのか?」で取り組んだ内容を次に示す。工業製品として缶詰を選んだ。缶詰は、栄養価が高い食料を長持ちするかつ持ち運びやすい貯蔵方法として1810年にイギリス人のピーター・デュランによって開発され、探検家や兵士の食料として使われた。このように缶詰の場合は、ヒトが利便さを追い求めて作られたものであるので、ヒトはより楽をするためにモノを作ると考える。
A.?栄養素がエネルギー源・成長修復・健康維持に果たす役割を学び、?高付加価値農業の事例と機能性食品のウェブ調査結果を発表し、?糖質・脂質・タンパク質の代謝経路と農産物の価値創造手法を復習しました。
A.①人は生き延び、よりよい暮らしを求める中で、道具や技術を生み出してきた。氷河期には寒さに耐えるため、マンモスを狩る道具として石器を作り、毛皮を縫うために骨を活用するなど、環境に適応するための工夫が見られた。こうした生活の工夫は、次第に手作業から組織的な工業へと発展し、さらに「作れない人に売る」という商業の形も生まれた。講義ではこうしたモノづくりの原点と発展について学び、自身は繊維を布へと加工する技術や、生活に密着した製品の背景にある工夫をポスターとしてまとめた。ものづくりは単なる技術ではなく、人の暮らしや社会の変化と密接に関わるものであると実感した。 ②「人はどのようにモノづくりを伝えてきたか」というテーマで議論を行い、私たちのグループでは「和包丁」の継承を取り上げた。和包丁は職人の手仕事により受け継がれてきた伝統工芸であり、現在では担い手不足という課題を抱えている。これに対して、教育プログラムの整備や海外との技術交流によって、知識や技術の保存と伝承を図ることが重要であると考察した。技術の継承は単に「残す」ことではなく、次の世代が活用できる形に整えていくことが求められている。 ③人がものを作る理由は「生きるための工夫」であり、技術の進化はその延長線上にあると感じた。また、モノづくりの発明だけでなく、その改良や発展も重要であり、それらは人々の願いや必要性を形にしてきた結果である。技術の継承や教育、また製造業における収益性の維持など、現代のモノづくりが直面する課題にも触れる中で、技術と社会のつながりを改めて意識することができた。
A.?今回の講義では、「ヒトはなぜモノを作らねばならないのか?」という根源的な問いを起点に、人間の生活とモノづくりの密接な関係性について考察しました。人類は原始の時代から、生存と生活の質の向上を目的に、衣食住を支える道具や技術を創出してきました。たとえば、氷河期にはマンモスを狩るための道具として打製石器が生まれ、得た毛皮を縫うためには骨を利用するなど、環境に適応する手段として道具が発展しました。このようにモノづくりは常に生きるための手段であると同時に、暮らしをより快適にする知恵でもありました。やがて火の制御、安全マッチの発明などにより、暮らしの安全性や利便性も飛躍的に向上しました。さらに、作ったモノを他者に売ることで商業が発展し、工業は個人の手作業から組織的な生産活動へと進化していきました。技術の継承と発展は、常に人間社会の根幹を支えてきたのです。 ?「ものづくりの継承」 半導体 山中麻央(発案)、荒井巴瑠、渡邉陽菜、鈴木泰逞、長橋昂汰、坂本彩夏 半導体技術の継承について考えた。現状の課題として高度な工程を行える設備が海外に集中してしまい、日本国内だけでは半導体の製造ができないおkとが挙げられます。その対策として国内での製造物資調達力を強化し、製造ラインの整備をする必要があると考えました。 ?半導体について考えました。 日本国内での半導体生産の復活を目指している中で、一度は外部に漏れ出てしまったことで産業の空洞化になってしまった半導体を、再び国内での生産力を上げるために、半導体の技術継承は企業の生産性向上や事業の安定化において重要な取り組みであり、特に熟練した技術者のノウハウを次世代に引き継ぐことが求められています。半導体は製造過程が複雑であり、特殊な製造装置を必要とします。また、現代では在宅勤務やオンライン授業の普及により、半導体の需要が上がり、以前より半導体を必要とする機器が多くなったために供給バランスが崩れ、特に新型コロナウイルスが流行したときには、日本国内での生産ができなかったために、車の製造などが滞ることもありました。そんな中で、日本国内で今実施していることは目盛り分野の支援強化や国家戦略としての取り組みを本格化させています。
A. 二酸化炭素の濃度から再生可能エネルギーの活用が必要であることなどを学びました。また、材料の変遷から二酸化炭素が増え始めた原因などについても理解を深めることができました。産業の世界史も学び、ヒトはなぜものを作らないといけないのか、どうやってものづくりを伝えてきたのか考えるきっかけになりました。 グループワークでは、半導体について考えました。半導体の現状の課題は材料・装置を台湾やアメリカなどに依存していて偏りがあることや高度な工程を行える設備が海外に集中している点などが挙げられます。 対策としては、多数の国と連携するとリスクが分散されたり、 国内での物質調達力を強化し国内での製造ラインの整備などが挙げられます。 今回の講義を通して、ヒトがなぜものづくりをしなくてはいけないのか、身近でかつ現代の注目されている半導体について、半導体の課題やそれに対する対策などを詳しく学ぶことができました。今回の講義で学んだことを今後に生かしていきたいと思います。
A.旧石器時代の人類は、厳しい自然環境に適応するために、多様な道具と知恵を駆使して生活していた。食料確保や寒さへの対策は生存の鍵であり、道具の発展と体の構造の工夫の両面からそれを読み取ることができる。まず、狩猟によって得られた獲物は、食料としてだけでなく、衣服や道具の材料としても利用された。たとえば、マンモスのような大型動物の毛皮を剥ぐ際には、石器を使用した。鋭利に加工された石器は、皮と肉の間に差し入れやすく、効率的に皮をはがすことが可能であった。 その皮を使って防寒具や袋を作る際には、骨で作った針のような道具で皮を縫い合わせたと考えられている。骨針は、魚の骨や鳥の骨などから削り出して作られ、細く硬く、革を通すのに十分な強度を持っていた。袋の作り方としては、動物の皮を乾かして柔らかくし、形を整え、縁を縫い合わせて口を紐で縛るシンプルな構造が主流だったと推定される。 このような防寒具の使用は、寒冷な気候への適応にも関わる。体の大きさは体温調節に影響を与えることが知られており、一般に寒冷地では体が大きい方が体温を保持しやすい。これは、体積に対して、表面積の比が小さくなるからである。一方、温暖な地域では、体が小さい方が比表面積が大きくなり、熱を放散しやすくなる。このような傾向は、現代人の体格の地域差(ベルクマンの法則)にも見られる。旧石器時代の人々は、限られた資源を利用して衣類や袋を自作し、狩猟・採集による生活を続けながら、道具の改良や身体的適応を通じて過酷な環境を生き抜いていた。その工夫と観察眼は、現代の私たちが学ぶべきサバイバル知識の原点とも言えるだろう。
A.
<!-- 課題 課題 課題 -->
<li>
<a href='https://edu.yz.yamagata-u.ac.jp/developer/WebClass/WebClassEssayQuestionAnswer.asp?id=393'>
<q><cite>
</q></cite>
</a>.
<a href='https://edu.yz.yamagata-u.ac.jp/developer/Asp/Youzan/@Syllabus.asp?nSyllabusID='>
<a/a>・
<a href='https://edu.yz.yamagata-u.ac.jp/developer/Asp/Youzan/@Lecture.asp?nLectureID='>
</a>
</li>
<!-- 課題 課題 課題 -->
大学教育の質の保証・向上ならびに 電子化及びオープンアクセスの推進の観点から 学校教育法第百十三条に基づき、 教育研究活動の状況を公表しています。
第百十三条 大学は、教育研究の成果の普及及び活用の促進に資するため、その教育研究活動の状況を公表するものとする。