現代の電気化学

2020/05/14
大里京祐

第4章 4.3 活性態と不働態


4.3.1 いろいろな腐食

日常の生活で廃食を実感するのはどのような場合であろうか?手入れの悪い自動 車・自転車・洗濯機に生じる赤い鏡、海岸付近の鋼構造物の錆、夏の旅行から始っ たときの水道からでる赤い水⋯わが国における1973年の調査では、腐食にともなう 直線的な経済損失はGNPの約2%であるとされている。以下に腐食のの形態とその特徴を述べる。 課境にさらされている表面全体あるいは広い面積にわたって性ぼ均一な速度で進行する腐食を全面廃食といい、 金属材料のもっとも一般的な腐食形態であり、腐食による損失の最大の部分を占める。 しかしながら、この形態の腐食は比較的簡単な試験により構造物や装置の腐食による寿命を予測できることから、 対策の立てやすい腐食でもある。孔食(pitting corosion)および隙間腐食(crevice corrosion)は、ともにステンレ 業で大きな問題となる腐食で、病食発生部と環境溶液との間の物質移動の起こりにくさが腐食進行の鍵となっている。これについては後節で述べる。 粒界腐食(intergranular corrodion)は金属材料の結晶粒界に沿った選択的腐食で、粒内はほとんど腐食されないにもかかわらず、材料の破壊を引き起こす。 よく知られているのは、ステンレス鋼のクロム欠乏による粒界腐食で、結晶粒界に C r₂₃ C などのクロム炭化物が析出し、粒界近傍の合金中のクロム濃度が数%にまで低下し、その部分の耐食性が極端に低下するためである。 また、アルミニウム合金、亜鉛、錫、鉛などでも、結晶粒界に不純物が編析し粒界の溶解速度が増加する場合がある。 合金成分のうち特定の成分だけが腐食によって選択的に溶出する減少を脱成分腐食(dealloying)といい、黄銅(Cu-Zn合金)の脱亜鉛腐食(dezincification)がよく 知られている。脱亜鉛腐食はCl-イオンを含む高温の水液中で起こりやすく、Znだけが選択的に溶けCuが残るのか、ZnとCuが同時に溶け出しCuが再析出するのか はまだ明確ではない。家庭用温水器の蛇口の栓に使われている黄銅製のコマが、数年の使用で銅色になっている例を身近でみることもあろう。 摩耗腐食(errosion-corrosion)は、局部的、衝撃的な機械的作用で材料の 削り取られるエロージョンと同時に腐食が起こっている場合をさし、両作用が互い に加速しあって大きな侵食を引き起こす。気相流体中の液滴、液相流体中の固体粉 末、液体中の回転翼に生じるキャビティー、オリフィス・曲がり管などに発生する 乱流などが金属材料または表面の保護皮膜を破壊し、腐食が加速される。 応力腐食割れ(stress corosion crackin,SCC)は、アルミニウム合金やステンレス鋼と塩化物水溶液、銅合金とアンモニア水、軟鋼とアルカリ水溶液等のように 特定の腐食環境と組み合わされた金属材料がきわめて低い引張応力によって割れる現象で、割れが粒界に沿って進む場合(粒界割れ)と結晶粒を貫いて割れが進展する場合 (粒内割れ)とある。 応力腐食割れは、強酸等の激しい腐食性環境よりも、環境の腐食性が弱く不働態被膜が表面全体を保護している場合の方が起こりやすい。 それゆえ、割れ以外の村料表面はなとんど腐食しないで、割れ先端部分で溶液のpH低下、金属溶解の加速、応力集中による変形が起こり割れが進行する。 また材料に水素の吸収が起こらない程度のカソード防食により応力腐食割れが防止されることから、機械的な割れ進行よりも電気化学的溶解が重要な過程であることがわかる。 ステンレス鋼のSCCは、原予炉の冷却水漏洩や化学ブラントの事故につながるため、その防止のための研究が精力的に行われている。



4、3、2 請びない鉄 ーステンレス鋼ー


人類が最も大量に使用している金属はいうまでもなく鉄である。この身近で有用な金属の最大の欠点は錆やすいことであろう。「錆びない鉄」を創り出すための努力は 18世紀以来続けられ、1818年頃にはファラデ一の法用で有なM.Faradayをはじめ多くの研究者が合金作りを試みている。 1912年には現在の基本鋼種となるオーステナイト系(18Cr-8Ni) 合金がドイツで特許出願され、 フェライト系、マルテンサイト系についても1912、 13年にアメリカとイギリスで特許出願、発明されている。ステンレス鋼の出現である。  ステンレス鋼の発明に先立つ18世紀末頃には、希硫酸、希硝酸中では瞬く間に溶解する鉄が濃硝酸中では溶けなくなること、 濃硝酸で処理した鉄は硫酸銅溶液に浸漬しても置換めっきによる銅の析出がないことが報告され、興味を持たれていた。 鉄が金や白金と同様に貴金属になったのである。ステンレス鋼の基本的な性質であるこの不働態について、まず調べてみよう。 硫酸溶液(例えば1N-H2SO4)に浸漬した鉄電極を腐食電位Ecorからアノードカ向へ電位を走査する。 図4、11に示されるようにアノード電流が増加し、鉄が急速に溶解しはじめる。しかしながら電極の表面は銀白色を保ち、この電位範囲ではlogJ〜EプロットがTafel直線を示す。 さらに電位が上昇し、電極表面に黒い皮膜が形成され始めると、電流一電位曲線はTafel直線からずれはじめ、皮膜が時々剥がれると電流が急に増加したりして、電流の振動がみられる。 そのうちに電流が急に小さくなり、表面に付着した黒い皮膜を取り除くと金属光沢をもった電極が現われる。 このとき流れるアノード電流は、図4、11にも示されるように、腐食電流密度Jcorより数桁以上小さい。これが電気化学的に創り出した不働態である。さらに電位が上昇し1.0Vを超える付近から電流が再び増えはじめるが、この電位範囲では顕著な鉄の溶解はなく、流れる電流のほとんどが鉄電極上で水の電気分解による酸素ガス発 に費やされる。 図4.11の分極曲線は次の5領域に分けることができる。①カソード反応として水素発生が起こり鉄が安定に存在する領域、②裸の電極から鉄が溶解する (活性溶解)領城、③濃厚な鉄イオンが水酸化物・鉄塩として沈澱し表面を覆うが、保護性がないため容易に破壊する(活性一不働態遷移) 領域、④極めて薄い不動態被膜に覆われた安定な不動態領域、この領域での鉄イオンの溶解速度(この状態での鉄の腐食 速度に対応する)は不働態維持電流Jpで表わされる。⑤不働態皮膜上での水の電気分解が起こる酸素発生領域。なお、ニッケルやクロムでは⑤よりも低い電位で4価あるいは6価のイオンとして溶解が起こる過不動態溶解がみられる。 電気化学的に形成された不働態はアノード電位を印加することにより形成・保持される、さきに述べた濃硝酸による化学的不働態とどこが違うのであろうか? 硝酸イオンは酸化剤であることから、そのカソード部分分極線は硝酸イオンの濃度により 図4、12の①②③で示される。これに鉄のアノード部分分極曲線を重ねると、アノ―ド、カソード曲線はa、a'、b'、c'、c"の各点で交わり、これらの点がそれぞれの溶液中における腐食電位と腐食電流密度を表わしている。希硝酸での腐食速度αは、濃硝酸の。c"よりも大きく、中程度の硝酸濃度でa"なら腐食速度はさらに大きく、c"ならば不働態で腐食速度は小さく、b"は不安定である。化学的不働態 c'、c"は酸化剤により電位をc'、c"に分極したのと全く等価であるといえる。
 さて、鉄の腐食速度を劇的に変える不働態被膜とはどのような被膜であろうか?
 光の反射・屈折率による研究(エリプソメトリー)、オージェ電子分光法などの表面分析、電気化学的クロノポテンショメトリーなどのこれまでの研究によると、 2〜5nmの極めて薄いr-Fe2O3の2層からなる酸化物であり、アルミニウム上のAl2O3やチタン上のTiO2と異なり、電気的には半導体または良導体であるとされている。また、適当な酸化剤(不働態域の電位)があれば、皮膜の破壊が起こっても容易に再生して再び不働態になることが特徴であると言える。この極めて薄く、化学的にも安定な皮膜を、より強固にしかも素早く形成する鉄合金を発明することが、ステンレス鋼開発の第一歩であった。  ステンレス鍋はクロムを12%以上含む鉄合金であり、最も重要な合金成分であるクロムは不働態皮膜として安定なクロムオキシ水酸化物および鉄・クロム複合酸化物を形成する。これらの酸化物は容易に還元されず、機械的に削り取っても空気中の酸素と水分により直ちに不働態皮膜が形成される。また、図4.11の不働態維持電流が1μA/cm2以下(0.01mm/year以下)となってはとんど腐食が起こらなくなる。さらに活性溶解の電流も低くなり、溶液に浸漬した状態で不働態になっている(自己不働態化)。


4.3.3 局部腐食
 家庭内の台所用品、家具、街では電車、建物外壁、エレベーターとステンレス鋼の登場は化学装置・プロセスに大きな変革をもたらした。耐食性の向上は装置の寿命を延ばしたばかりでなく、腐食による製品の汚染がなくなり、新しいより過酷な操業条件を可能にした。しかし ながら、ステンレス鋼にも弱点がある。それほど厳しくない腐食環境での孔食、隙間腐食、応力腐食割れ、不適切な熱処理により粒界腐食などがそれである。ここでは典型的な局部腐食(localized corrosion)である孔食と隙間腐食について、その 発生と成長を電気化学的に検討する。 孔食は、材料表面にあいた1mm以下の小さな孔が直径方向よりも板厚方向へ穿たれていく現象で、内容物の漏洩があって初めて孔食の発生に気付く場合が多い。また、その進行速度も数mm/yearとかなり早い場合も多い。一方、隙間腐食は金属/金属または金属/非金属の接触部またはその付近に形成される隙間で発生する腐食である。孔食と隙間腐食は、塩化物イオンによる不働態皮膜の破壊および不動態化の妨害が主な原因であり、その発生機構はそれぞれでやや異なるが、成長機構は同じである。以下にその電気化学的挙動と発生・成長の特徴を調べてみよう。 ステンレス鋼をNaClを含む水溶液中で極めて遅い速度(例えば10〜20mv/min)でアノード方向に電位走査すると、図4.13に示されるようにある電位Epitでアノード電流が急激に増加しはじめる。塩化物イオンを含まない場合には破線で示すように酸素 発生が起こるまで電流は増加しない。Epitは塩化物イオン濃度に依存し、Epit以上で孔食の成長が起こることから、孔食電位(pitting potential)と呼ばれている。
ある程度アノード電流が大きくなった後、電位走査方向を逆転すると、電流は一時的に増加するが徐々に減少し、ついにカソード電流が流れ始める。この電位は 孔食の再不働態化電位あるいは保護電位Epro(protectionpotential)と呼ばれ、この電位以下では孔食が発生したとしても自発的に不働態化し、消滅する電位とされて いる。実用的には、孔食電位Epitが卑であり、保護電位Eproが貴である方が孔食がおこりにくく、成長しにくいといえる。
さて、実際にはどのようなことが起こっているだろうか。塩化物イオンを含む水溶液中におかれたステンレス鋼は、結晶粒界や不純物として含まれるMnSなどの 介在物の周囲で不働態皮膜が弱くなる。これらの位置に塩化物イオンが吸着すると、酸化物が可溶性の塩化物またはそれと複合塩となり、不働態皮膜の局所的溶解が起こる。 通常の不働態皮膜では、「容易に皮膜が再生し孔食は発生しないが、続けて弱い被膜が形成されたり、塩化物イオンの吸着が多い場合(C1-濃度および電位の関数 である)には、ついに皮膜が破れ下地の合金層が現われることになる。すなわち、金属が露出した部分で局所的な金属のアノード溶解が起こり、孔食の核が発生する。  成長している孔食は模式的に図4.14によって表わされる。食孔部では金属の容解が起こり、発生した電子は自由表面(不働態皮膜に覆われている)でのカソード反 応で消費される。溶液を通しては、正味の正電荷が食孔部から自由表面に向かって 流れる必要があり、溶け出したカチオンの一部が食孔部から外へ、Cl-が自由表面 から孔食内部へ電気泳働により移動する。これによって食孔内部では、金属イオン Cl-の濃縮が起こる。浅厚な塩化物イオン溶液中では不働態化が起こりにくくなるとともに濃厚な金属イオン溶液で加水分解によってpHが低下する。ステンレス鋼の各成分元素の 加水分解平衡と平衡pHは次式で表せる。
これらの式より、それぞれのカチオンが同程度の濃度であればCr3+濃度でその溶液のpHが決定され、ある程度孔食が進行すると(例えばCr3+濃度が1mol/dm3程度になると)孔食内部での溶液のpHは1〜2とかなり低くなることがわかる。すなわち、食孔内部ではCI-の濃縮とともにpHが低下し、孔食が成長すればするほど活性溶解(アノード溶解)速度が増加して不働態化がますます起こりにくくなるといえる。また、濃厚な金属イオン溶液は比重が大きいため、孔食の成長は重力の方向に起こりやすい。 隙間腐食についても孔食の成長と同様な機構が考えられている。隙間の模式図は図4.15に示され、隙間内部のイオン種は開口部が狭く拡散による自由表面への物質移動は極めて小さいと考えてよい。隙間内部では不働態保持電流によるカチオンの 濃縮と電気泳動によるCl-の濃縮が起こる。このためpHの低下、不働態皮膜の破壊、アノード溶解の加速が起こり、隙間腐食が成長する。 同様の機構によるpH低下、CI-の濃縮、アノード溶解の加速は、応力腐食割れの先端部分でも起こっていると考えられ、ステンレス鋼を塩化物を含む環境で使用する際の最も悩ましい問題となっている。