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ぼくはベーコンになりたい

うすうす感づいてはいたのだ。 大学の数学の単位を全部落としたし、 高校のとき数学がさっぱりわからんかった。 研究室の先生は、高校の数学の授業は、つまらんから寝てた、というが、 つまらんから寝てるのと、わからんから寝てるのとでは、月とすっぽんどころか、赤色巨星とナノ粒子ぐらいの違いがあるのだ。 そう、ぼくは微分が全くわからなかったのだ。 できれば認めたくなかったけど、目を背けることのできないこの衝撃の事実。 自分に向けられる国立大学理工系大学院生の言葉が痛い。

今を逃したら、このなぞの微分記号dの意味を理解するチャンスは一生訪れることはない、 とぼくの直感が告げている。 すでにだいぶ夜は更けているのだが、もう少しだけおつきあいください、と先生に懇願した。 露骨にいやそうな顔するなよ!と心の中で思いつつ、精一杯の作り笑顔をすること10秒。 仕方ないなあ、と先生は帰るのにまとめかけた荷物を机に置いてくれた。

さっきまで円の微分について陽関数表示で微分するより陰関数表示のまま全微分する方が、 ずっとエレガントだぜ、などとほざいていた先生は、やれやれというふうに、放物線とも三次曲線ともとれないグラフをさらさら描いた。 微分そのものがわかっていないのだから、こっちのやり方がエレガントとか、ださいとか、はなからそういうレベルではないのだ。

もともと微分に話が流れたいきさつは、マクローリン展開であった。 そのときいっしょにそのマクローリン展開の話を聞いていた、後輩のみゆきちゃんは、とても成績優秀である。 実際ぼくからみたら、うらやましい限りだ。ところがその彼女もすがるようなまなざしで、ぼくといっしょに先生を見つめている。 もしかしてこいつも微分がわかっていないのか? あたしも記号の羅列をとにかく丸暗記してきただけで、実は意味がわかっていなかったのよ、とつぶやいてくれたとき、 おお!同士よ!、と不覚にも救われた気分になってしまった。成績優秀なみゆきちゃんがわからないのだから、 成績優秀でないぼくがわからないのは当然であろう。いや待て。開き直ってどうする。

先生は、dy/dxとf'(x)とy'の意味の違いについて、グラフの上に線を引きながら説明をはじめた。 早すぎてわからん。営業スマイルは既に使ってしまったので、今度は精一杯神妙な顔を作ってもう一度説明してくれと頼む。だから、呆れたような顔すんなよ! こっちだって慣れない神妙な顔作ってやってんだぞ。イプシロンデルタだぁ?いったいそいつは、何のおまじないだ? こんなことになるんなら、コンビニで何か食べるもん買っておけばよかった。ああ、おなかすいた。

説明が進めば、進むほど、いかに微分がわかってなかったのかを思い知らされる。 どうして学校の数学の先生は、微分を教えてくれなかったんだよ。 微分記号dが差分記号Δの極限をあらわしているってさ。 教科書に書いてあるから、読めばわかるだろ、ってそういう問題じゃない。 読んでわかるくらいなら、そもそも授業は要らないじゃないか。 おれの貴重な青春奪いやがって。授業、寝てたけど。 あ、みゆきちゃん、ごめん。彼女はとてもまじめだ。 高校時代から今に至るまで、 眠くてもがんばって授業を受けていたに違いない。 もっともがんばってまじめに授業を受けていた彼女だって、いかに微分がわかってなかったのかを思い知らされているのだから、 まじめとかがんばったとかいうのは、微分がわかっているかいないかとは、さほどかかわりがないのかもしれない。

なっといっても致命的だったのは、xとかyとかが変数の名前だということ知らなかったことである。 というよりか、変数がなんなのかわからないままに、変数に名前をつけようというのは、 犬も猫も見たことがないのに、ポチとタマについてのお話をするようなもので、 みゆきちゃんが記号の羅列を丸暗記したというのもうなずける。 意味はさっぱりわからないけど、ありがたいから暗記しておきなさい、といわれる法事のお経のようなものだ。 変数は、漢字のごとく数値の変化だ。数直線と言ってもいい。 先生は定義域だの、閉区間だの、開区間だの言い出しかけたが、長くなりそうなのでさえぎった。

そしてもっとも迂闊だったのはy'も変数の名前だったということに気づかずにいたことだ。 ほんとうならzでもよかったのだが、yととっても関係がある変数の名前だということを強調したくて、 yにダッシュをつけたy'という名前をつけただけのことだったのだ。 余計なおせっかいしやがって。ダッシュがなんだか特別の意味のような気がして、かえって混乱したではないか。 かといってzと書くのも無関係な気がするし、y1と書いてもなんだか数列っぽくて次がありそうな気がする。 そんな名前に悩んでいるぐらいなら、とりあえずダッシュでもつけとけ!みたいなかんじだったんだろう。無頓着にもほどがある。 まったく数学を専門とするやつらは、こだわるところはとことんこだわるくせに、 どうでもいいとなったらとことんどうでもいいのだから、そのいい加減さにはいつも閉口させられる。 などと真剣に考えているぼくの表情を、まじまじと見ている先生のあんぐりと開けた口に、爆竹を特盛りサービスで突っ込んで、火をつけてやろうかと思ったけど、実行に移すのは、微分の話を最後まで聞いてからでないと損だと気づいて思いとどまった。

そしてfが関数の名前だと教わって愕然とする。 そりゃあ、数学で落ちこぼれるわけだ。変数の意味がわからない上に、関数との区別がついていないのだから。 もしかしてf'も関数の名前ですか、と恐る恐る先生に聞いて、期待通りの答えが返ってくる。当たり前だろ。 学問が当たり前のことを自分の目と手で確かめることだとしても、あまりに時期が遅すぎる。 国立大学理工系大学院生の肩書きがこんなにも重く感じたことはない。 今を逃せば、ほんとうにもう二度と数学を学ぶチャンスはやってこないだろう。 なにせ目の前にいるのは数学の先生ではなくて、電気化学の先生なのだから。 ほんとうならgでもよかったのだが、fととっても関係がある関数の名前だということを強調したくて、 fにダッシュをつけたf'という名前をつけただけのことだったのだ。 変数と関数はもともと違う概念で、yとかy'とかfとかf'はその名前だったのだと飲み込むのに、 こんなに骨が折れたのは、人並みに年齢を重ねてしまった副作用だろう。 みゆきちゃんが、なぜ小学校や中学校でちゃんとやらないんですか、と聞いても答えに窮するだろうと思われる質問を、 先生にぶつけて、心の葛藤を少しでも減らそうと虚しい努力を続けていた。

続く

この物語はフィクションと言い切れない部分もあり、実在の人物・団体とは一切関係ないこともありませんが、 まあ、大筋のところは、フィクションと言って差し支えないかと思われます。 万一、実在の人物・団体に心当たりがあったとしても、あくまでフィクションとして温かく寛大な心をもってお楽しみいただければありがたく存じます。