ぼくはベーコンになりたい

その話は、突然に持ちあがった。 もう数学のことなどすっかり忘れて、拾ってきた機械を分解して、遊びほうけていたときにだ。 錆びついたねじを外すのに、ねじ山をうっかり潰さないよう、慎重にドライバーをあてがっていたその背中から声がかかった。


「あのさー、急で悪いんだけど、セミナー講師の代理やって欲しいんだ」
「え、何のことですか?」
「うん、今度のインピーダンスのセミナーなんだけど、ちょっと予定が狂っちゃって」

ちょっと待て。先生。インピーダンスと言えば、泣く子も黙るフーリエ変換なんか使っちゃういかにも工学系の大学生って感じのやつだ。 そのくらいのことは、大学の数学の単位を全部落としたぼくでも、そこはかとなく知っている。 そのぼくにインピーダンスのセミナー講師をやれと?冗談じゃない。


「そういえば、こないだ、微分教えたよね?」

はあ?まったく微分の意味をわかっていなかったぼくにちょろっと話しただけだろが。 だからなんだつーの。


「いや、教わったというか・・・」
「帰るって言っていたのに、夜遅くまで無理やり勉強につきあわされたよね?」

しまった。まったく油断も隙もない。 こいつにだけは借りは作るまいと思っていたのだが。 言い返すまもなく、やつは矢継ぎ早に恩着せがましく踏み込んでくる。


「困ったときはお互い様だよね!やっぱりさ、人間としても、そういうのが正しいと思う」
「そんなこと、言われたって・・・」

口から出かけた言葉をすかさずさえぎられる。


「いや、ほんとありがたいなあ!ありがとう」

ぼくが二の句が継げずにいるまに、先生はいつものあの忌々しい足音を立てて、あっという間に立ち去ってしまった。

インピーダンスというのは、もともと効率よく電力を送るための設計に使う数値なのだが、 数値は数値でも複素数というやっかいな数値だ。 やたら便利だ、便利だと騒ぐ連中がいるのだが、虚数などとという数字にあらざるべきものを便利だと騒ぐ連中の心中は推し量ろうとするだけ無駄というものだ。 さてどうしたものかと途方にくれていると、うまい具合にダイキが目の前を通りかかった。

ダイキは研究室に来るまで、電気のデの字を聞くのも忌み嫌っていたのだが、エレキギターのエレキが実は電気のことだと察して以来、その電気アレルギーが少し和らいでいる。 ギターアンプやエフェクターも電気回路から成り立っていると知って、勢いあまってエフェクターを自作したりもした。 ここはひとつダイキに手助けを願うのが良かろうと、こともなさげに話しかける。


「おす。あのさ、ちょっと教えてほしいんだけど」
「あ?」
「前に、エフェクター作ってたよね?エフェクター作るなんて凄いなあ。あれについて聞きたいんだ」
「おう、いいよ!何でも聞いてくれ!」

しめた。 ダイキはちょっと顔をほころばしてる。きっと悪い気はしていない。行ける。 微分がわかんなくても、なんとかごまかせそうだぞ。


「エフェクターに抵抗器とかコンデンサとか使ってたよね?あれって何?」
「何も彼にもねえよ、抵抗器は抵抗器だよ」
「へえ、そっか。ちなみにインピーダンスって何?」
「インピーダンス?そんなんもわかんないんか?」
「面目ない。ダイキくんなら、インピーダンス、わかるよね?」
「まあ、わかんないこともないが・・・」

ダイキの顔がだんだん曇ってくる。頼む。持ちこたえてくれ。神様、仏様、ダイキ様。


「ねえ、、インピーダンスって?」
「まあ、そりゃ、なんだな、まずは微分を使わなくちゃなんねえ。で、マサキ、おまえさん微分の方はどうだ?」
「それがからっきしなんだ」
「そりゃあ、いかんなー、インピーダンスを教えてやりたいのは山々だが、微分がわかんねえってのはいけねえや」
「えー、そこをなんとか」
「悪いけど、ばあちゃんの遺言で微分だけは人様に教えちゃなんねえって釘刺されているんだ。まあイシカワにでも微分を聞いてから出直してくるんだな」

何だよ、それ。 ばあちゃんが遺言でそんなこと言うもんか。 もしや、ダイキも、微分を知らないのか? さらにはインピーダンスも知らないのか? 無知は無力だ。「知識は力なり」って言ったのはベーコンとかいう哲学者だっけ。 哲学者のくせにまったく塩漬け肉みたいな名前しやがって、目玉焼きといっしょにして食っちまうぞ。ばかやろう。 などと悪態をついてみても、インピーダンスは、ぼくにひざまずいてくれたりはしない。 くやしいけど「知識は力なり」ってのはほんとだ。痛いほど思い知らされた。 国立大学理工系大学院生の肩書きが塩となってその痛い傷口にすり込まれる。 ああ、ぼくはベーコンになりたい。

続く

この物語はフィクションと言い切れない部分もあり、実在の人物・団体とは一切関係ないこともありませんが、 まあ、大筋のところは、フィクションと言って差し支えないかと思われます。 万一、実在の人物・団体に心当たりがあったとしても、あくまでフィクションとして温かく寛大な心をもってお楽しみいただければありがたく存じます。