自由研究

現在までに、研究してきたことを、論文として表現してみましょう。

自由研究を提出する際の留意点

何もしないと、自由にはなれません。 そのことは、ピアノの演奏に、たとえてみれば、すぐわかります。 弾きたい曲を、好きなように、自由に演奏できる人が、どんな人なのか想像すれば、よいのです。 自由になるには、知識を得たり、練習を繰り返すことも、それなりに必要です。

自由な演奏は、よい演奏です。 ほめられる演奏と、よい演奏は、まったく違います。 ほめられるために演奏するのと、 素直な心で、自由に、よい演奏をめざし、それでほめられるのとでは、 同じほめられるにしても、その質は、まったく違うものになるでしょう。

だから、ほめられることより、素直な心で、何を、どう研究したのかの方が、ずっと大切です。 素直な心とは、たとえば知りたいと思う好奇心、面白いと思う気持ち、楽しいと思う気持ち、そういうような、その人だけの尊いものです。 他人からおしつけられるものでも、他人からもらうものでもありません。

その無邪気なそして純粋な興味が尊いのであって、良い科学的の研究をするにはそのような気持が一番大切なのである。良い研究は苦虫を噛かみ潰つぶしたような顔をしているか、妙に深刻な表情をしていなければ出来ぬと思う人があったら、それは大変な間違いである。

中谷宇吉郎著、 「霜柱の研究」について より

知識を得たり、練習を繰り返す、と言っても、むやみやたらと、がむしゃらにがんばることではありません。 弾きたい曲を、好きなように、自由に演奏できる人を、もう一度想像してみてください。 ピアノを自由に演奏できる人の手首は、なんと柔らかくしなやかなことでしょう。 よい研究は、柔らかで弾力的な「心の手首」から生まれます。

それで科学者は眼前に現われる現象に対して言わば赤子のごとき無私無我の心をもっていなければならない。止水明鏡のごとくにあらゆるものの姿をその有りのままに写すことができなければならない。武芸の達人が夜半の途上で後ろから突然切りかけられてもひらりと身をかわすことができる、それと同じような心の態度を保つことができなくては、瞬時の間に現われて消えるような機微の現象を発見することは不可能である。それには心に私がなく、言わば「心の手首」が自由に柔らかく弾性的であることが必要なのではないか。

寺田寅彦著、 「手首」の問題 より

自由研究は、基本的人権にもとづきます。 憲法の第二十三条には、「学問の自由は、これを保障する。」とあります。 学問の自由は、研究の自由。研究の自由は、心の自由。 大学には、定められた指導要領はありません。 憲法に定められた学問の自由を謳歌できる、日本で唯一の教育機関です。

自由にやるより、 人に言われたことをやる方が楽です。 「これでいいですか?」とダメ出ししてもらうのは、なんと楽なことでしょう。 ほんとうの自由研究は、誰も「それで、いいです」と言ってくれません。 自分が納得するまで、物事を突き詰めるのは、決して楽な作業ではありません。

だから、常日頃の自由研究を、報告書に表現してみるかどうか、 それも、あなたの自由です。


自由研究は、複数の授業にまたがっているため、同じテーマを複数の授業に提出する、いわゆる二重投稿は、ご遠慮ください。